本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

本をだきしめて(一)

 不幸なことに、みずからの半生をつとふりかえってみた時に、趣味は読書です、と言って済ませることのできた期間の、ほんの一期間とてなかった私なのである。もちろん、これからも「趣味は読書」は私の身に起こりうるものではないだろう。ひとは物書きをめざした時から、趣味としての読書を放棄せねばならなくなり、読むことはもっぱらみずからの虚構を作り出す営みの、糧でしかなくなる。わかりやすい例でいって、保育園にかよっていた頃、私は雑誌に掲載されている徳育を目的としたような小説を、原稿用紙にマネて作って、それを保育士にみせて大いに感心を買ったことがある。惨めな記憶とは別段思わぬ。それ相応に、人の歓心を買うことに私は必死であったのだろうと思うだけである。

 小説を書き始めるという、愚かな道を進み始めた中学生のころに、すぐに結果を出した。当時、私は美術部に入っており、そこの担当の教員があなたは几帳面だし、文章が上手だから、といって私に小説を書くことを勧めた。文科省のコンクールが公募を出しており、それが絵画以外にも小説の作品を募集をしていたのである。私は百枚の小説をすらりと書いてしまい、この賞は獲ったよ、と親しい友人たちに対して得意げにしていた。そして、私は気ちがいの母親をもっていたため、学業がままならなくなり、しばらく不登校にしていたのだったが、その間に私の賞を獲ったことについて全校集会で校長が長々と話をしたのらしかった。三春町という田舎の学校であったから、学校に行くと、その話がよほどかんに障ったらしく、あらゆる教師が私に向けて、てめえ調子のってんじゃねェ、あなたは小説家になどなれない、頭がおかしいんだおまえは、とつぎからつぎへと罵声を浴びせてきたものだった(そのくせ彼らは、私がボロボロの「嵐が丘」などを教室に読んでいると、なんだその汚ねぇ本は、と一様に本の外見について触れるだけなのであった)。気ちがい育ちの私はもとから変わったところがあり、教員たちから大いに嫌われていたのだ。大林組だとか当時の文部大臣の名前の刷られた賞状が二、三枚と、時計が二つ、景品として送られて来た。そんなものはどうせ気ちがいの母親によって棄てられてしまった。