本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

芸と大食(六)

 実際、バーと古書店が、かろうじて私の二十代を二十代らしく飾ってくれていたものだったと、個人的な体験として、私には回顧される。
 そしてそこには、甘いカクテルを注文をするなり私を適切にたしなめてくれる先輩が必要であり、もちろんウォールナット材の広いカウンター越し、世間知に祝福をされたバーテンダーが必要であった。
 マチズモによってしか養ええない人文教養のひとつの部分というものが、たしかにある。
 バーは男だけの世界であり、そこで私たちはヘミングウェイを、チャンドラーを学ぶのであって、四畳半の居室で、早川文庫などを開いていて得られる読書の知見などというものは、読んだというただそれだけのものにすぎない。こういってもいいだろう。そうして得られたナルシシズムと、酒場で得られたナルシシズムとは、根底的にべつのものであり、前者、読書によって身につけてしまった野暮ったいナルシシズムが、引き返しのつかない錯誤でなかった試しがないが、後者、酒場で得られたナルシシズムは、いつかかならず自らの手によって破壊させられる運命にある。バーに女をつれて赴くという掟が、世界では通用しないように、世界は酩酊の美をかならず、現実の力によって破壊をしかけてくるしかなかった。
 サンボアでフランス人の作るマティーニ。
 シェイカーの立てる気品あるひびき。
 あとはどんな本の虫でもかなわない、職業的な衒学を身につけた古書店主のもとに、みずからの選書を見せつけるようにして試練のような買い物を続けてゆくことをさえすれば、一応の二十代というものができあがる――誇らしいものではないが私がその証人だ。私は古書店とバーのおかげでしっかりと胃に穴を開けた。なんとか、二十代の結構がそれでできる。

新宿ピットインで音楽と酒に酔う

 あれから十年が経ち、二十年が経った。本も、酒も、そこで儚い夢となって消えて、今の私になにを残しているのかなどはしれはしない。西新宿の、味が落ちる前まではよく通っていたステーキ店で、サーロインステーキを口に運んで胃のどこで消えたのか、などを気に掛けたことがないのと同様に、その瞬間にたしかな喜悦が、私の命があったというだけだ。食べるということは、食べたという事実のうちに生命を瞬間に刻印することであり、ある見方に依ればけしてそれ以上のものではなく、あとにはすべて過ぎ去っていく、それはそれで美しいのかもしれない時の流れだけが、在る。

新宿ピットインの50年

新宿ピットインの50年

  • 作者: 
  • 河出書房新社
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