本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

芸と大食(七)

 書物が私たちの感じたことのない感覚について教え、世界の広がりを認識させてくれたように、食べものもまた世界の広がりを、認識というともすれば綱渡りのようなものとはことなって、味蕾に直接に、教示をしてくれる。
 いまやネパール人のつくるカレーは日本中にある。そして、ベトナムのフォー、インドの地方料理、イタリアのピッツァ、本場のパスタ、フレンチ、台湾料理に中国料理、……日本では食べられないものをさがすことのほうがむずかしい。
 出汁文化の日本において、奇妙に化学調味料でにごったフォーのスープとはことなって、牛と豚からとった本場のスープを提供してくれる、フォーティントーキョーは、そこで食べるベトナム人たちがみな人心地がついた、という風合いにして安心をして食べているのと同様に、不思議とあのフォーを啜ると、こちらまでもが故郷の感覚をもってしまう。なぜか、なつかしい味がする。

 新宿で不意に、牛肉麺を食いたくなって、つっかけで店に飛び込み出てくる本場の牛肉麺のはばかることのない野生味、天然自然のゆらぐことのない麺の食感を、汗を流して食べること。
 サンガリアを片手にイタリア人が給仕をつとめる、どこそこと名前のついた地方のピッツァの生地に嘆息をもらして、それを食べることの、たまらない愉楽。
 ワインを飲み過ぎて栄誉の死を遂げた天才的シェフの弟子筋のつくる、イタリアンの小皿ひとつびとつに宿る、口に運んで味わうことができてしまう、くすんだ色の郷土色。

 時に書物に口づけをして、抱擁をしたくなるのと同様に、これらの料理は異国の名前をとってはいる一方で、しかるべき代価をさえ払えば、たまらなく親密に、すぐそこにあるものとして、私たちの味蕾に訴えかけてきてくれる。それはなんという驚きであっただろう。日本という国、本邦に生まれ落ちたことの因果は、カレーや蕎麦を食べることには勿論として、これらのフォーや、ピッツァや、本場の洋食を食べることに、あったのだ。私たちがスタンダールを、ゲーテを、ボルヘスを読んだように。およそそうとしかおもわれない。