本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「よく選挙とかみんな行けるよなっておもうぜ」「どこの国家もネジが飛んでる国ばっかりだ」「気持ち悪いよな、「多様性」って」

 最近、引っ越しをして、そのさいにイタリア製のパイプをなくしてしまった。ちょっとしたものがその代償のようになくなっていったりするから、引っ越しっていうのは困る。まだモンスナックがあったころの、紀伊國屋のちょっとあやしげなあそこの煙草屋で買って、すっかりと気に入っていたのに。
 手巻き煙草は一時期、やっていたのだけれども、やめちまった。面倒くさいんだよね、あれ。雰囲気もそんな、ないし。
 けどもさ、喫煙所とかで、手巻き煙草をぺろりと一瞬で巻いて、火を点けている外国人女性とかをみていると、うんかなわん、となる。
 三島由紀夫的に、私は日本人だ、と鏡を突き出された心地にひたれるわけだ。
 三島由紀夫的に、というけれども、私は三島由紀夫なんざ大嫌いであって、いろいろ、場数を踏んでいくことって大事だよな。喫煙所だけど。私なんかとくに引きこもり体質だから、そうおもう。
 その引きこもり体質の私が、そんなこと、言わなきゃなんないんだぜ。だって。
 政治的左右とか、いま、よくわからねえもの。
 よく選挙とかみんな行けるよなっておもうぜ。よくもまあ、SNSで無意味に、政治的言表をとばしていられるよ。あれ、意味ないでしょう、そのひとの、当人の面構えをみなければ、なんにもわからないもの。
 朝日新聞の記者の顔、人生にいちどでいいから、見てご覧って。
 ひでえツラだから。
 もう、見た瞬間に、あっコイツは駄目だ。と卒然とわかるのね。
 野良猫でも逃げ出すほど。一旦、しゃべり出したら、最悪なんだよ、最悪! 二回め見ちゃったら呪われてんじゃねえのかって、その瞬時にわかるね。
 ほんとはさ、だから、いろんな処で左翼になって、いろんな処で右翼になって、自分は右翼なんか左翼なんか、って引き比べて、三日は左翼、三日は右翼、七日めでああコイツはただのバカだと、自覚をする、深く、自己認識をする。そんなもんだよ。結局、旨いもんをどれだけ食べているかとか、そのひとが普段どんな服をきているのかとか、べつにふりかけかけただけのご飯でもいいからそれをどんだけ楽しく食べることができているのか、とか、そこが基準なんだけれども、ネットなんかじゃ、そんなものは伏せられているし、伏せられているから居心地がいいとかいうことにでもなっている。
 すこし考えりゃわかるが、ネット上の政治的発言ほど無責任なもんはねえだろ。
 そういうやつにかぎって、なにがデモクラシーだ、なにが言論の自由だ、ってんだか。
 そんなんだから、駄目なんだ。退屈だよな、つくづく。

 二〇二二年八月。
 プーチンの侵攻がはじまった。
 日本の政府高官が「最悪のシナリオだ」と天を仰いだというが、私もまったくおなじ反応だ。ちゃんとしたひともいたもんだとおもった。
 本邦にとっちゃ、こんなん、よく、ねえ。
 絵図ってあるからね。
 で、絵図のなかでもいい方、悪い方とあって、ぬるぬると悪い方のとおりに進んでいるわけである。
 まったく関係ないけれどもさ、戦争ものの映画、いいのが続いていたんだよ。「この世界の片隅に」とか、あと「トゥルーノース」なんか出た時にはこんなものが映画として出る時代になったのかね、とほんとうに驚愕をしたし、それを度外視をしても映画の完成度の強さに、私は、絶対にその時にも、泣いていたね。
 映画の先見性って強くってさ、「戦場のピアニスト」的な野蛮を、左翼の言葉でいう「総括」か。ハハ。歴史上のナラティブとして再構成もできないままに、どころかフクヤマ的な「歴史の終わり」のデオドラントな、清潔な世界の肌感覚のうちに、とんでもないカオスに突っ込んでいっている、その、清潔だと思い込んでいるがぶんの異物感。
 さすがに古くせえよな。バブルの匂いとはほど遠い、きな臭い世界のなかでは――だがヘイドン・ホワイトを持ち出しても、ジャブロンカとかもってきても、通用をしねえよな。情報化社会でどいつを信じたらいいのかとかいう、不確実性にさらされている(ノルベルト・ボルツ)のではなくって、世界の脅威を前に、人文知っていうのがまえもって無効の宣告をくだされてしまっている。ありていにいってそうだ。オピニオンリーダーなんて東にも西にもいやしない。
 まあまだマルクスやら毛沢東どまりの国もあるわけだし、どんだけ人文知が歴史を作り出したって、国家っていうのは、どこの国家もネジが飛んでる国ばっかりだからね……。

 これは恰度そのプーチンのウクライナ侵攻のちょいと前の話なんだが、本邦でもっともオーソドックスな文芸誌の新人賞、あれの中間発表をみて愕然としたのは、三分の一くらい(どうだったか……盛っているかもしれない。私のことだからたぶんだいぶ盛ってる)が台湾出身の方の名前で占められていたこと。
 ですから出版社に好意的にみれば、台湾に日本語が身近にある人がまだ、いるというのと、おそらく台湾では作家になるためのルートが限られているというのと、そうした複合的な状況がある。
 なによりも、書くものの水準が軒並み高い、ということなのでしょが。
 台湾……心配だよなァ。
 多様性とかいう、くっだらねえ言い様が世間に流通をしているからだという気もする。気持ち悪いよな、「多様性」って。気持ち悪いっていうと、何、私は保守親父ということにでもなるのかね、馬鹿馬鹿しい。
 ふつうにいびつな生を生きて、メシ食って寝ていたら、わざわざ「多様性」なんていう言葉は出て来ないと思うんだよな。
 台湾じゃねーけど、中国出身で、なんか今櫻井よしことかと共著だしちゃう人になっているみたいだが、楊逸さんの処女作は面白かったなぁ。台湾は、映画とか、面白いよ。食い物も旨い。てったって、まあ東京で食ってんだけど。新宿にすごいいい店があって、こんど、連れてったげるよ。