本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

芸と大食(四)

 とんかつは、林SPFという豚肉のロースをとにかく、食いまくる、ということによってとんかつの舌をつくっていった。それは丸五の特ロースを知ったあとのことだった。とりあえずは急ごしらえにそんなことをしておいて、あとは街とともにとんかつを、食べていけばいいのだし、先に挙げた梅林のカウンターもいつでも居場所としてもっている。

美術館がよいしていた頃お世話になっていた山家のとんかつがとんかつを食べるはじまりだった

 おなじ肉で食うことによって、薄い衣が好きなのか、それとも、というのが、まずわかる。私は薄い衣の肉に岩塩で食べるのが好きなのだけれども、好みでないはずのとんかつを出す店でも、当然、美しい料理人は実在をする。そのとんかつを食べては、店の素晴らしさを、街の広さを感じるごと、自分の好き嫌いなどというものは、当然至極の話として、どうだってよくなってゆく。
 食べもので喧嘩をするな、というのはわかっても、食べものなんて好き好きだから、という適当な画商のような言い様を、私が頑是とすることはできないのは、そこである。
 小説であれ、同様であり、いいものはいいのであり、スタンダールの小説を前に、現代の小説を引き合いにだしても、そんなものは手に取るのも愚かしいゴミなのに、きまっている。多くの読者はそんなことにも頓着をせずに読んでいるが、小説にも上手い、下手が画然としてある、おそろしい世界なのだ。
 上手い人は上手い。そして彼のなかにも失敗作はあり、下手な人は下手であるが、そのなかで懸命に一作をものすることがある。文字の世界に触れるとはそのみきわめと、ある種のフェアさを鍛えるということである。
 もちろん、いかにフェアであろうと努めても、駄目なものは駄目だと言っていなければならない。実際に口にするかどうかはべつとして。

丸五

 私の好きなウィリアム・マルクスは「文人伝」で「文人は、あらゆる権力に対抗して、真実の勝利を確立しようとする。文人のみが、原典の正確さ、テクストの権威、起源のコンテクストの一貫性を保証し、始原の意図をもっとも近くで把握する。それ以外の解釈や注釈も不可欠ではあるものの、それは後から行われるものであって、もし最初になすべき仕事が文人によって行われないなら、どれほど鮮やかな解釈であれ、無意味なものになるだろう」と書いている(本田貴久訳)。それが、どういう原理なのかはしらないが、実際にみずから文章を書く人間である、ということは、一作、一作のテクストに対してできうる限りのフェアで透明な読解を試み続ける努力と、対になっている。読解がフェアでなければ、第一の読者としての自分をもつ自作のテクストに対して、最低限の批評意識を働かせることができないから、といってもいいが、なんにせよ文章を書く人間のカルマとして、美術をみていても、映画を観ていても、食べものを口に運んでいる時であれ、その本能はついてまわる。

 好き嫌いというせせこましい議論の枠組みを越えて、私たちは食べているのだったし、また、好きだ嫌いだといっているゆとりがなくなるまでの、圧倒的な食べものをいつも飢渇をしているのだ。