三月になるとイライラして、しかたがない。意識的にネットを遮断しないと、ダメだな。
そりゃ私のごときだって、震災の被災者や、ご遺族が、底知れぬおもいを抱えているのを知っているし、毎年、この時季ともなれば傷口がうずくようになるのかもしれない、とおもいもする。
じゃあ、素直に哀悼をしていればいいではないか、というかもしれないし、実際にそうなのだろうが、そうとはいかない、理窟でヤヤコシクせざるを得ないから文章なんて書いている。
文章を書くっていうのは、めんどうくさくするッ、ていうことなんだ。
それとおなじ心底から、追悼という行事を、わたしは美しいもの、こと、だとおもっている。
けれども、それにひっついて、一四〇文字ポエムをつづったり、来て、観て、だのというキャッチコピーを考案したコピーライターなり、ビジネスに走っていたやつらというのが、どうしたって目につく。しかたがないんだね。闘争的な性格をしているから、持ったが病なんだ。
それでね。
わたしは思うのだけれども、今の時代のインターネットというもんと、成長物語っていうものとは、つくづく、相性がわるいんだよ。ネットの情報ってすべてが詰まっているわけではなく、一面的なものにすぎないっていう話なんだけれども。
つまりさ、わたしが拘泥をして、ひところ熱を上げていた概念に、「心的外傷後成長」っていうもんがある。
おれたちの世代にはもう、豊かな「青春」みたいなのはあらかじめなくってさ、過去のトラウマとか、そういうもんによって、青年期のすべてが語り尽くされるような、そういう貧しさっていうのがあるのだとおもうのね。
――これはべつにおれがトラウマ・サバイバーだからじゃないんだ。なんというのかな、一時代に象徴性なり、心理を言い当てるための語彙がなくなってきていると言ってもいいし、たんに人間から陰翳のようなものが奪われていってしまっているのだ、と言ってもいいだろう。
とにかく人間ていうものがアヤフヤになって来ているなかで、「人間的成長」なんていうものを持ち出すのは、かなり、いかがわしいっていうか、マッチョなんだよな。
いや、ちがうな。
そもそもが、やっぱり、「人間的成長」そのものが、SNSとかを差配するポリティカル・コレクトネスというか、曖昧な自己肯定感と結託した俗な正義感と、相性が悪いの。
トラウマがあったことによって私は成長をすることができた、なんて、虐待を絶対悪とするひとらには、通用しない理窟だもの。絶対悪っても、なんかなんとなく絶対悪、みたいなぼやっとした肯定感と対になっているようなね、なんも言っていないのと同様の、ネット的な価値観のうちで。
くっだらねェよな。
じじつ、たしか心的外傷後成長の研究者でもある、車椅子のサバイバーが、車椅子になったことによってよかったことはありますか、とかおなじような人らに、ネットで訊いたら、たたかれちゃうんだよね。んなもんあるわけねえだろ、バカ野郎、って。
それはなにも心的外傷後成長だけではないんじゃない。
今みてえな地獄みてーな世の中では、成長っていうことを喋々する時点で、なんか、鼻白むことをするのが、要は、SNS的な知識つーのかね、感性だわな。
人間的成長なんて、スパムと同等の人材コンサルタントとか、情報商材を売ってる詐欺師かなんかの方便にしか、聞こえないよう、馴致されちまうんだよ。あんましネットばっかりみているとね。
あたりまえだわな、成長なんてしたかねえっていうか、する甲斐性がねーからネットに入り浸ってんだもの。情報がほしけりゃ神保町なり図書館なりに行くし、おもしろいもん観たきゃ映画館にでもライブハウスでも行けばいい。それでも退屈だってんなら、退屈でネットのほうが楽しいってんなら、そいつの感度が、死んでるだけじゃん。
ネット上でビジネスしている絵描きとか、音楽家とかなら例外なんだろうが、ほんとうに努力している奴がその努力の過程をそこに出していくわけが、ない。自堕落なもんなのだからね、ほんらい、ネットってのは。
こう書くと、ああそうなのですね、心的外傷後成長というのがあるのですね、虐待されたらされたでそのひとなりの価値観があるのですね、とか、だれも傷つけない無害な顔で、ひとつ気づきを得ました、とでもいうふうに、とおりすぎていくわけだ、だから、そこなんだよ、そういうとこなんだよ、そういうやつら、てめーらのクダラネーとこは、って、わかんねえよな。
実際問題、被災地に行って追悼の式典に行ったり、震災語り部とかのお話を聴いていると、卒然とわかるものがある。なんでこのひとたち、こんな明るいんだろう、快活なのだろう、って、ね。
そのための機会が今年もまた設けられて、そうして、依存している野郎どもはSNS上で「追悼」とか投稿をして追悼をしたその気になっていやがる。こういうやつら、心根からどうにかしてやらねーとダメなんじゃねーのか。