本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

PTG的な言葉――早川良一郎「散歩が仕事」読了メモ

 太宰とか、安吾とか、自意識まわりの小説はとうに流行らない時代になっている。それは、SNSというゴミ箱に放り込まれた、自意識まわりの言葉、ジャンク品としての言葉をだれもがこんにち、見馴れているというのも大きいだろう。近松秋江くらいの芸にならなければ見世物にならない、――せめて車谷長吉くらいの「自意識まわり」を演出する余裕といおうか、したたかさが文章家にはもとめられるのだ、と言い換えてもいい。車谷長吉というのはモダニストであって、ほかにいろいろな文章が書ける、全然ふだんああではないような人が、敢えて、選択的にあの書き言葉を選んでいるわけだから、太宰とか安吾とはまたちがうし、檀一雄ですらないのだけれども。

 早川良一郎のナラティブから連想させられるのは、もちろんモダニストというよりは、天性の都会人としての風通しのよさ、檀一雄の闊達さや、サローヤンの自国語を他国語としてあつかうことで生まれるある種の洗練であって、壇でいうのならば、太宰であること、安吾であることを諦めた、彼らのように自分はなれないのだ、とするひとつのパースペクティブから、壇というのは出てきたわけだ。いうなればみずから太宰の、安吾のパロディストであろうとする、かつそれはモダニストのようなちゃらついた態度による選択ではなく、対象に同化をして行動をとることによってみずからも本当に行き詰まる、生活が立ちゆかなくなって切羽詰まるところから、生まれてくる自由さ、闊達さにとくに「火宅の人」の時の壇の言葉は、祝福をされていただろう。

 私はこのような、ステップを一段階、踏み越えたところにある言葉のはたらきに興味をもってみている――ダンテ式に極端にいえば、それは「地獄/天国」図式ということになる。地獄が選択的に用意され、それを踏み越えて表現者としてみずから獲得をした天国に行き着く一回的な事態。これでもまだ堅苦しいが。壇の場合、太宰や安吾を諦めた世界、地獄をつくりだし、そして天国、檀一雄の書き言葉をつくりだす、みずから踏み越えるものをもみずからつくりだす。ダンテは天国の高揚感を書くために地獄を書いたようなところがあるし、かつてニーチェは力について書くために、ニヒリズムという地平を用意した、それと重なり合うように壇や、早川良一郎のような表現者の言葉を私はみている。
 だからこれは貶めるわけではまったくないのだけれども、末井昭という優れた書き手がいて、「素敵なダイナマイトスキャンダル」という最初に書いた文章は、標題からしてみずからの人生に降りかかった悲惨な体験を、笑い飛ばすような自由闊達なといおうか、飄然と開き直ったような、そうした書き言葉で書いていたのだけれども、――それが「自殺」とかのほうに、やっぱりダウナーなほうに、吸い寄せられていってしまう現象を、なにか私はSNS時代的、当世風、というように感じ取っていてしまう。もちろん弱さを引き受けることも強さなのであるから、それはいいのだけれども、……。だが表現者はそのようにあってはならないのではなかったか。

 地獄にいるのに天国にいってしまう、その屈託に寄り添うことで末井昭の文章はたぐいまれな優しさ柔らかさを獲得をしているわけだが、――表現者は、屈託の部分はひとまずはクリアカットしていっていいのではなかったか。というか、そうしてきたのではなかったか。自分の弱い部分醜い部分は表舞台ではみせない、その当たり前が、文章家の場合には安易に通用しなくなる点がヤッカイなわけだけれども。
 心的外傷後成長という言葉がある。これは戦争のような痛ましい体験をしてきた人間が、のちになって、その体験そのものをおよそ全的に肯定してしまう、そしてそれによって「自分はあの体験によって前向きになれた、成長をすることができた」とする、語りを獲得する、してしまう状態のことを指す。虐待とか、戦争体験とか、地獄は地獄なのだけれども、そのひとのなかではそれが、人間的成長のひとつのトリガーというか、内容そのものとなりうるのだということをこのタームはひとまず示していて、いうまでもなく、それはおそらくはSNS向きではない、不謹慎たらざるをえない。ある意味ではインチキのようにさえ映るのだがそのひとの実存的体験のなかで、そのようなことが起こったことはだれにも否定はできないし、譲り渡すことはできないわけだ。そのように生きるのだ、成長を成長と言い張るのだ、拡大していえば自分のつくりだした天国というか、ひとつの世界をあくまでもみずからの手で構成させていくのだという、欲望なり、感性。そうしたものがどこかにあるのだということは、早川良一郎の戦争を語るに際しても、どころか世相を観察をするにさいしても、アッケラカンと開き直って、ひとを食っている書き言葉を読み取る時にも、確認ができたことであっただろう。

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