本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

本をだきしめて(五)

 けだし、若年期の期間における読書とは、自己の感性の探究、模索にならざるをえない。好き嫌いというのを超えた地点から、みずからのそれでも譲ることのできない文飾とはなにか、共感をよせてやむことのない詩情とはいかなものであったのか、をたえず書物のうちに探ることが、読書行為にほかならない。それはもちろん安易な「自分さがし」に陥るリスクをふくんでいるわけであったが、十代、二十代ならば、「自分さがし」というか、ちょっとした間違いや、あとで思い返せば恥ずかしい読書家ゆえのエピソードなどというものは、まだまだ許される期間であり、それだけある種の不自由ゆえの自由が、そこでは約束されているのだ。自分が十九世紀的な小説や、それを継承したフォースターのような作家が好きであるのか、あるいはジョイスのような二十世紀的な、実験的な小説が好きであったのか、などなどが、みずからを疑問にかけながらそこではふるいにかけられて、途方もない長い期間を経て、ひとりの人間が確固としてひとりの人間へと成長をしてゆかねばならない。長い、長い時間が必要だ。成長、という言葉は忘れ、ただ書物という道楽に、おもいきり遊ぶこととしよう。

 先回りをして、ひとこと、附言をしておきたいのだが――太宰治が好きだ、と無警戒に公言をするような、自称読書家は多い。若いひとであったのならばそれは許されていただろうけれども、三十代になったら、もう許されないとおもった方がいい。太宰治が好きであるのならば、ほかの無頼派作家のものを当然、読んでおらねばならず、さらに拡大をして未来派やダダのようなアヴァンギャルドの芸術作品に触れたあと、つまりは太宰治を好きだとする自らの感性を追求していった結果、そのあとでも、「太宰治が僕は好きです」と言いうるかどうかといえば、それはきわめて怪しいものなのだ。ここには、さらにもうひとつの次元がある。つまりどのような書物を愛好をするのか、というのは、それ自体で、ひとつの雄弁な自己紹介なのだ。皮肉なことに、これは自意識まわりの小説に触れている人に多いのであったが、そこに機転をきかせる感度がすこしでもあるのならば、そこでは手札としては、村上春樹や、太宰治のような作家は選ばれるべきではない。それはそれだけでその人がその程度だと、世間では、決めてかかってくる危険というのが多いのであったから、無論のことなのである。

 この余談はおもしろいので、私はここに続けてしまうのである、――実際、読書と社交という俗っぽいものとを、組み合わせてかんがえるということは、不純なことのように思われるかもしれない。しかし、そうではない。まったく違うのである。そこでは私たちの感性が、十全なしかたで、試されているのである。たとえば十代、二十代のころ、読書家である私は、好きな女子の前ではどのような本を開いているべきか、躍起になって考えさせられていたものである。彼女がもしも、自分の本に興味をもち、そのページを何気なく開くようなことがあった場合に、その本は私の価値、そのものなのだ。そこで「コロコロコミック」のような分厚いミステリーや、森見登美彦なぞを用意している人間は、真剣に恋愛をできていないのであるし、真剣に読書という行為と、向き合っていないそれだけのことであるから、大した人間にはなれまい。実際、文学史などを追ってみても、同人作家たちや、批評の分野におけるサロンなどにおいて、女性の視点というのがいかに大きく、有効に作用をしてきたことか。異性の視点に耐えうる美意識を涵養するためには、やや自意識過剰気味の青年期が、やはり、盛りである。そこでは、虚栄をはるという大きな美徳が必要とされている。見栄をはって読んだこともない小説や、シェイクスピアでもなんでもよいし、クラシック音楽に浮気をするというしかたであっても――そうした、今自分のいる地点からより高いものに望む、その姿勢が、読書行為、ないし、芸術に触れ続けるという、いちど動き出してしまった以上は一生続く、精神生活の運動において、重要なのである。背伸びをすることはしんどいことでもあるのだけれども、いずれ、未知のもの、すごいものがもっともっとあるのだ、そうして自分はそれに触れたいのだ、とする意志的な力へと、すぐと変わっていく性状をしているから、安心をして未知の書架には飛び込むべきだ。

Arthur Rubinstein Plays Chopin

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 さて、若い私たちは、まだ「感性」と呼べるほどにまで発達をみせていないみずからの部分を抱えながら、書物のなかに、みずからの揺らがない意味や、価値をみつけてゆくこととなる。意味や、価値というものが、いかに軽んじられる世界のなかであっても、呪縛のようにその営みは動き出してしまった以上、とまらない。