本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「なんか知っちゃった」――リリー・フランキー/ナンシー関「小さなスナック」

 これはのっけから余談だが、萩原健太という、日本でビーチボーイズでありブライアン・ウィルソンを聴いている人士であるのならば、まずゆかりがあるであろう音楽評論家の名前が、ナンシー関の口から出てきて、驚いたのであった。

 ナンシー (略)高校生の頃、ツイストやサザンとかのロゴマークを消してゴムで彫るのが抜群にうまかったんですよ、私。みんな消しゴム持って頼みに来て。で、大学入ってからも暇つぶしの一環で彫ってて、たまたま雑誌の人の目にとまった。「ホットドッグ・プレス」で萩原健太さんがやってたコラムページのイラストが初めてギャラをもらった仕事で、そのあと読者投稿ページで私の新しいコーナーを作るから、呼び込みの原稿を書けって200字詰めの原稿用紙と鉛筆を渡されて。わからないままに悩んで書いて、1回も改行してなかったな。
 リリー お経みたいだ(笑)。
   ナンシー関/リリー・フランキー「小さなスナック」

 雑司ヶ谷や、贔屓の作家のいる小平の霊園も、文学館あるきも、美術館めぐりも飽きてしまってからのちも、消費することは快楽であることをなかなか、しぶとく、よしてはくれないのだった。あるいはもはや消費は快楽などではないのかもしれなかった。味のしないガムを、ガムとしてかみ続ける悪癖が身についているだけのことなのかもしれなかったが、とにかく、そのようにして私は銀座の行きつけのフレンチでパナッシェを、新宿駅構内の「ベルク」で朝にはコーヒーを、昼から以降はビールをあおっては、シネスイッチ銀座や武蔵野館といった映画館がよいを、止すことができないのだった。退屈なのは知っているんだけれどもね。けれどもその退屈さに期待をしてしまうのだったし、それらの映画館に通うこと自体に、えも言い知れぬ甘美さが、すくなくとも甘美な香りの残り香を、まだ鼻先に、匂っていられる自分を、知っていた。
 子どものころから日本文学全集を読んでいたせいで、自意識まわりの文学というやつが、嫌いであった。もっといえば日本文学全体が嫌いなのであろうが、太宰治や、坂口安吾の女々しさというやつがあり、自分も読書をしているからというので、ひとにそのような女々しさがあるかのごとくに思われること、思われぬようにするのにはどうしたものか、については、ひとしきり考えさせられてきた時期が、二十代のころにはあったような気もする。結局は、その同時期に、東京の街あるきをして、自分なりの酒の飲み方を知っていったことが、もっともよいその回答であったのだったけれども。
 やっぱり人間、ある程度は、俗っぽくなければイヤだ。脂ぎった中華飯店のメニューみたいに、べったりとした、だらしなさをどこかにみせられなければ、イヤなのだ。もっとも、しょうもないだけじゃあ、どうしようもない。みっともないことに一抹の警戒心をもてないようでは致し方なく、それこそ――あまり女々しいという言葉を使いすぎていて、いかにも当世風とは言い難いが――女子生徒たちが集団で騒いでいるような、無内容な俗っぽさでは、救いがないのだけれども。

 ナンシー 話変わるけど、この間、友人と食事してて、気がついたら私抜かしてみんな左利きだった。なんか妙な感じだったなあ。
 リリー へえ。女の人の左利きを発見すると、ちょっと興味が湧くんですよ俺。で、それってもう異性としての興味なんです。
 ナンシー いるぞ、いっぱい私の周りに(笑)。
 リリー いや、最初から箸を左手で持ってれば、別になんとも感じないと思うんですよ。だけど、ふとした瞬間に、あれ、この人いま左で何かをしてるなと思うと、じつは私左利きで、とか始まったりして、その歴史になんか、来ちゃったりするんですよね。
 ナンシー それは何ですかね。
 リリー なんか知っちゃった、みたいなことなんじゃないですかね、くだらないけど(笑)。
   同上

 左利きのくだりは男にはわかる、すくなくとも私にはわかることであるが、「なんか知っちゃった」に私は感心をしてしまう。そのセンテンスに。すとんと腑に落ちるフレーズに。
 四文屋で話しているような(というと本の標題が「小さなスナック」であるからそのままなのだけれども)、ほどけた雰囲気、くつろいだ佇まいのなかから、不意に覗かせる、自己への省察が、――というと、なにか高尚に過ぎてちがってしまうが、要は味が、コクが、そのひとの顔がふと、あらわれる瞬間。くすんだ焼き鳥の匂いとかに、たちまち消されていってしまって、そしてどうということもなく過ぎ去っていく物言いのなかに、きらきらとしたものを拾い集めることが、好きだ。それはほぼひとと酔うことが好き、ということと同義なのであっただろうが。