本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「眼と視力は人格の中心であるという考えかた」――日高敏隆「春の数えかた」、ゴンザレス=クルッシ「五つの感覚」

 短気で、そそっかしく風景を見渡していてしまう。
 中尊寺に行った時もそう。
 なんにもおぼえちゃいない。
 或いは、一部の本を読んでいても、数行を読んでは斜め読みをしていくだけで、この本はどんな性質の本であり、中核の部分にはどんなことが書かれているのか……と読む。はじまりは「アンチ・オイディプス」をそんなふうにして読んだ。ときどき、当たる。
 離人症という持病をもっている。
 風景から実感が切り離されて、自己がまったき孤絶しているかのように感じる、病気である。

 道端の木にヤマノイモのつるがからまっている。ムカゴを探してみたいところだが、さすがにまだ夏。ムカゴはついていない。つるを辿って目を移していくと、細長いハート形の葉が次々に並んでいる。そんな中の一枚には、ハート形のまん中あたりに小さな葉のかけらがくっついている。よく見ると、このかけらは、葉にしっかりと糸でくくりつけられているではないか。
 これはダイミョウセセリというセセリチョウの幼虫のしわざである。幼虫は身をかくすために、自分が食べものにしているヤマノイモの葉を切って葉っぱの上に置き、何か所かを絹糸で止める。そして昼はその中にかくれ、夜出て葉を食べるのである。

日高敏隆「春の数えかた」

 動物学者のこの観察を、現代文学においては稀少となった対象描写の一種なのだとして読むと、私はここに失われた古き良き純文学、をみる気がする。
 いずれにせよ、僕にとっては、切り離された風景の、文章だ。切り離された風景。そういうものがあるのだと語感からでもわかってもらえばそれで十分である。
 だから、このように、書きたくなるのか。そこに拘泥してしまうのか。
 こんにちに於いて、かつて「純文学」系統と捉えられた伝統的な叙法、文学的修辞は、たとえば科学的修辞となって、寧ろ職業的作家ではない、上質とされるエッセイを書くひとの文章に、このように散見されるようになったわけである。
 本邦に於いて「純文学」的言辞というのはひとつのパラダイムであり、文学的とされるイディオムといおうか、クリシェでもない、ある風合いのことを指す。そしてそれはアルシテクスト性、文学の文学性となり、数多の追従者たちを呼び込むこととなる。このように書けば「文学」なのだろう、これでいいのだろう、というような。たとえばそれにパロディカルなまでに依拠をした作家に辻仁成がいる。そしてたとえばそれを意識せずに済んでいられていた世代の作家たちには、高樹のぶ子、宮本輝、――せいぜいが上質な作家で云えば佐伯一麦くらいまでが継承したのが、日本の「純文学」であっただろうか。間延びをした、冗長といえる言語のゲシュタルト。
 しかしそれに私は惹かれていた。純文学的なものに、というよりは、その間延びをした加減に、冗長さのなかに垣間見える時間性に。読書でしかえられない、間の感覚、時間の感覚というものが、そこにはたしかにあり、たとえば「嵐が丘」のような小説を読んだ時に感じる独特の、ゆったりとした大時代的な時間の広さに、私はあこがれてきたのである。それこそが私にとっての読書だった、というまでに。そんな時に、私は私の短気に、嫌気が差す。

 心を惹かれるものと醜怪なものとのいりまじった以上のような諸事実に基づいて、眼と視力は人格の中心であるという考えかたが成立する。〈我〉すなわち自我は眼にひとしい。
F・ゴンザレス=クルッシ「五つの感覚」野村美紀子訳