本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「人生の方は我々がどこへ行っても、いやでもついてくる」――吉田健一「続 酒肴酒」

 宇野さんの事を、人間として最も善く出来た田舎者だと僕が言ったら、あれで田舎者に徹したらモット素晴らしい人だったろう、と言った人がある。
   青山二郎「鎌倉文士骨董奇譚」

 小林秀雄一派の東京人である以外に、大した取り柄もなかったような、お前がいうな、とも勿論、おもう。

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 北海道は私にとって、謎を有した土地である。それはたとえば、伊藤整のあの書き言葉を産み出し、もうひとつは、西部邁の書き言葉(乃至「知性の構造」にみられる独特の抽象度)もそこに加えてもいいのだったかもしれないが、もちろんその端緒としてあげられるのが札幌農学校の存在であり、いったいにどうして、近代日本文学史上唯一のロマン構造を有した小説を書き得た有島武郎が、中心たる東京ではなく、北海道から出て来た、こなければならなかったのであったか……謎は、謎なのであったが、さる同時代の評論家たちが伊藤整に就いて、彼には北海道の人間としての東京へのコンプレックスがあっただろうから、というようなことを、対談で話しているのを読んだ時の、私の印象はそれはあまり、ないだろう、というものだった。すくなくとも、彼の後期の小説の重厚な構造を前に、そのようなコンプレックスなど考える必要性もない、というのは、私にとっては自明であったのである。

知性の構造 (ハルキ文庫)

 自分の田舎者であることを、なにほどか痛切に、ひりひりと「嫌だ」と感じたのは、二十歳にもみたないころにバルザックの「谷間の百合」を読んだ、その当時のことであったとおもう。実際、東北に生まれて、そだち、小説を書く、ということを振り返った時に、そこに起こるのは、静かな無力感とわが身を恥じ入るような、ある荒涼とした心境であった。ドイツ人作家でもあるまいし、中心ならざる田舎にこもらされて、一体、なにを書けるのであったか、もしも自分が東京に生まれて書いていたのならば、自分の書いていたものは今とどうちがっていたのだったか、という疑念を、私は子どものころにたえず抱いていたような気がするし、今であれいくぶんかそのケはたぶん、残っているのであって、それは、コンプレックスというのともまたちがう、純粋な好奇心から。どうあれ、その問いたては、都会への憧憬と裏表となっていたのであり、それから私は銀座を知った。新宿を知った。もちろん、神保町を知り、昔は「キッチン南海」のカツカレーばかりを食べていたのが、近ごろは欧風カレーまで、選べる身分となったわけである。とくに、銀座という街は、昔も今も私を包み込み続けてくれている、という実感がある。シネスイッチ銀座へと足をはこび、退屈をして映画を見終えて、三州屋といった定食屋であったり、よし田に入ったり、オーバカナルのパナッシェを浴びにいったりする、そのあしどり。歴史性をはらんだ固有名詞に時間をみっちりと埋め合わせをさせる、甘やかな心地を私はもう知っていた。

 あるいはそうではなくても、単純に、小林信彦や、江藤淳や、それこそ漱石を、東京人を観察するようにして読むといったしかたで、私は東京とは、東京人とはなにであるのかを、学んできた。日本文学史をたどって読んでいくということは、その営みと、切って離せない営みである。

 博物館などを廻ったりしてから、人間はバーや飲み屋に行くようになる。あるいは、必ずしもそうでなくても、そういう場合もあることをここに記して置きたい。そして博物館に行って我々が求めるものが芸術や文化や教養や知識とはきまっていないのと同様に、バーにあるものが人生だなどと、勿論、誰も思ってはいない。バーや飲み屋にはそんなものよりももっと貴重な酒があって、人生の方は我々がどこへ行っても、いやでもついてくる。
 酒というと、酒が自分の前に置かれて、飲んでいるうちにいい気持になる。こんなにうまい仕掛けというものはないので、その本当の味を楽しむためにも、家を出る必要がある。家でならば、黙って自分で一升びんを開けてお燗して飲むことも出来るが、自分の家というのは自分の感じが強過ぎる場所で、それ故に泰西名画の複写などを掛けて置いても、かえって邪魔に感じられることの方が多いものである。酒も同じことで、寝ても覚めてもお馴染みの自分の影を相手に飲むよりは、誰もが大体同じ人間になる街中に出て飲んだ方がいい。いつも同じ自分の世界を離れて、博物館で名画と向き合ったのならば、飲み屋でお銚子を取り上げる時、我々はもう玄関のベルが鳴ったなどということを気にすることはない。今度は自分ではなくて、酒が相手になってくれる。日頃、頭の中で行われている対談は断たれて、ただそのままでいれば、それで寂しければ、寂しさを感じる世界が開けていく。
   吉田健一「続 酒肴酒」

 「よし田」とは、今のビルディングに移転をする前の店舗で、出会うことができた。その時、私は東京での生活にとほうに暮れていて、血迷って入社した産経新聞の、新聞配達の仕事をばっくれたその晩に、あー、すこしは銭があるな、どうしようか、とわくわくとしながら算段をし、そうだ蕎麦でも食おう、と銀座に行って、「よし田」に入ったのである。ひとかどの愛書家でなければできない、よく分からない判断であったが、今となってはそんなことがよき思い出と化してしまうのだから、銀座は、不思議だ。まだだれもがスマートフォンを持っているという世相でもなかったから、数寄屋橋交差点のあたりで地図をぐるぐると広げていると、遊び慣れた紳士が、よし田さんならばあそこですよ、と教えてくれる、そういういい時代でもあった。援助交際(当時はそう呼んだ。今でもつかわれている言葉なのかしら)をしているとおぼしい、隣席のおじさんと少女との話を聞きながら、なんとか店内の空気を腹いっぱいに吸い寄せようと、実直な、儀式ばった態度から燗をつけてもらい、それを飲んでは、天ぷら蕎麦をすすっていた。感動するほどには蕎麦は美味のものではなかったと感じていたが、「よし田」が最高の蕎麦としか今の私にはおもわれない。蕎麦、という語との釣り合いから。つっかけで食べに行く、行かなければならないその風趣との兼ね合いから。くりかえすが、新聞配達員としての逃避行が「よし田」とその私との出会いだったのだ。それ以後は、おむすびつきのランチタイムによく盛りそばばかりを頼み、友人をさそって酒を酌み交わし、最近では、長く交際を経ている女性を連れて、その「よし田」の窓から銀座の歩道を眺めては、ああ、そうか、私は今どうであれこのようなかたちで、ここにいるのであったか、と、ほぼ震撼、といってもいいマチズモ的な美意識が入り交じった認識を、しいられていた。なんだかそれではよくわからないが、とにかくそれは私に、抜き差しならない人生の一瞬間であったわけだ。二十年近くも通い続けていればそのような瞬間も訪れたものであったろうが、そこが蕎麦屋であるのならば、しっかりとした結構を有した蕎麦屋でなければ、訪れる時も訪れはしなかったであろう。
 詰まり、東京に行って名のある店ひとつに入る、通う、そのような営みであり、ひとつびとつの体験を前にして、私の住む東北の県の飯屋を、百店食べ歩いたところが、その体験の片鱗にすら出会うことはかなわなかっただろう。どうであれ田舎に住むということはそういう事態を招かざるをえないのであり、それが田舎ぐらしの、不便である。いろいろとそこには事情があるのであり、地方には競争がない、料理人の人材もない、といった逐一もあっただろうが、東京がもつダイナミックな歴史性がなく、美食の都市としての特殊性にも、欠いているのが地方ということ、なのである。地方在住者ながらにして、私は地方で飲む酒に、本当の甘美なものを見出しえたためしがない。

 また数寄屋橋の界隈になってしまうが、たとえば銀座のオーバカナルの、パナッシェ。あの細身のグラスにそそがれた、琥珀色の液体をたよりに、ポーションでとってもらった皿をならべて料理を食する快楽は、「酒を飲む」という行為、あるいは一連の流れ、さりげなさを湛えていたいその行動に、もっともしっくりとはまっているがゆえに、快楽なのであろう。そうとでもしなければ、あの美しさの正体は、私にはつかめないようにおもわれる。フレンチ式によそよそしい、その給仕たちのよそよそしさが非常に心地良い空間を演出してくれる店内で、友人に「伊藤君は田舎者だから」とそんな時、そしられようとも、私には「いいじゃねえか、だれが東北生まれで、だれが軽井沢に妾宅だかを構えていようが」と、安穏としてすべてを受け容れられる心地にひたっているのである。