本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「浅草辺の、ボロアパートが舞台でね……」「東北なぁ……」「多様性とかさ、性自認とかさ、ほんとうに薄っすい言葉が……」

 新宿で三本たてつづけに映画を観てどれも良かったという話。
 「コット はじまりの夏」はいかにもアイルランド、という「毒親」がつくりだす行き場のなさ、どうしようもなさを効果的に作り出しているのだけれども、撮影がいいんだとおもう、三十五ミリのスタンダードのサイズで、端正に撮っている。「アンジェラの灰」とかのフランク・マコートをみても、アイルランドのダメ親父ってのは本当にダメなんだよな。やっぱり酒が旨いからか、なんなのか。
「アクアマン」の続編はまあベッタベタのコテコテで、ついていけなくなる人もいるんだろうが、私はこれはこういうもんだと楽しむことにしているので(DC作品はあらかた視聴して追えている。この間の「シャザム!」も観ていて大丈夫だったくらいにはDC作品についての素養が身についてしまっている)、まあ、そういうもんだった、という話だろう。
 ヴェンダースの新作「パーフェクトデイズ」は、なんでトイレ清掃員なんだろう、っておもっていたら、そのまんま、年取ったトイレ清掃員の生活を描くことによって、映画監督としての晩年におもうことをメッセージソングみたいにしている映画で(主人公のトイレ清掃員はカメラで樹の写真を撮るのが好きで、それを押し入れにアーカイブとして残していたりする)、技巧的な分ものたりないほどだけれども、ダルデンヌ兄弟みたいに技巧的な人がズッコケタ作品(「トニとロキタ」だっけ)を撮るのなんかよりは、全然いいし、役所広司はひさしぶりに俳優としてやっているな、という感じだった、――たまにすごいスイッチが入る時があるんだけれども、今回がそれで、鬼気迫るような演技をしていて、なんともいえぬ味がある映画になっていた。浅草辺の、ボロアパートが舞台でね、ああいうところもそれっぽくていい。なんかさ、過去になにかがあって役所広司はちょっと螺子が外れてんのね、外れてんだけれどもなんだか必死に生きている。それを単に頭おかしいというふうにさせないように、公園に本当に気のおかしくなったじいちゃんとか配置しておいたりしていてさ、全体的に用意周到なんだよな。行き届いている。「アメリカの夜」的な自己言及についてまわるクサみがなくって、それが一種のリリシズムというか、明晰さ、ひとまずは腕前のたしかさへと昇華されている。

 ひと月にいちど、通院しているクリニックが本郷三丁目などという味よい場所にあって(文学者ふうで生意気なほどだ)、湯島のお宮が近い。文学なんて学問じゃなくて芸事だ、新宿の花園神社にでも詣でてオカマにケツを掘られていればいい、という話なんだが、まあ近いからというので、その日の診察後、歩いてみる気分になる。東京はあったかくていいや。富岡多恵子が紹介していたけれどもね、ある関西人が「東北人は詩人にむいている」だそうな。よく言うや、ともおもったが、私は私の急所をそれで突かれたような心持ちになってねェ……その関西人は差別的な言い様であるのよりも、関西人であることから来る僻みから、そう言ったのかもしれないが、たしかに宮澤賢治なんていうのは、古川日出男の系譜にまで連なる、東北人、どうしようもない田舎者のロマンチストなわけだ(私はだから、古川日出男校長先生――ただようまなびやという学校のワークショップの、常連の参加者だった、私は――のことをあてこすってこう言っているのだが)。それで宮澤賢治のことが私は、大っキライでねェ……それっていうのは東北の風土がキライなのだから、そこで昔ッから虐待とか受けて、碌でもない目にばっかり遭って来ているから、それと重なり合うかたちで宮澤賢治がキライなのか、ってなると、話がちがってくる、こんがらがってヤッカイになってきちまう。東北の、田舎者としての急所だよ、これは。でもまあ未来派であるなり、アヴァンギャルドっていうのは、子どものお遊戯だとおもっていて、ガキは、イヤなもんだよ。抑圧されたガキなんていうとさらにイヤだ。
 東北なぁ……まあ、あんまり気にしないでいいもんなんだよ、東京人の相手方だってそういうのは言うだけ野暮という格好があるから東京人になれるんであってね(それができない狭量なやつはどだい田舎者なわけだ)、私の師匠なんて北海道だろ。で、平野謙あたりの評論家たちが連れだってアイツは北海道の人としての後ろめたさがあったはずだ、とかいやに断定的に憶測をかわしたりしているのだけれども、ないと思うんだよね、それ。師匠の文学的実績を数えあげていっても、田舎者がジョイスなんかの真新しいものに触れて、尊重をしていた、というよりは、単純な向学心でそれをやっている、と私は思っていて、しかも、小説はほんとうにスゴイことになっていく。小説家なんだから小説書けりゃ立派なもんなわけで、いろんなこと言う奴がいるもんだよ、それでも。

 湯島大神宮で今年はじめての参拝をして、お守りなんざ選んでいると、このお守りは縫い目が気に食わない……としているうちにお巫女さんが窓口にあらわれ、こちらでどうぞーとやるものだから、焦ってべつのお守りを手に取るついでに、そいつを地面に落っことしちまう。「落ちたお守りはお祓いしますねー」とお巫女さんが言うのも当然で、おまえ、センター試験になると学生が東京中から大挙して押し寄せる神社で、なにやってんだ、って話、落ちるはさすがになかったか。粗忽を恥じ入り、新しくお守りをアップグレードをばして、さらに上野まで歩いちまおうか、とコンビニでビール買ってフラフラする。発泡酒からビールを飲むように、最近切り替えたもんで、コイツが旨くてならず、不忍池に寄ってもう一本飲むか、と信号待ちをしている間に、ぐいっと一本もうかたづいてしまっている。不忍池ってのは池なんかね、名前はいいのだけれども、すくなくともわざわざそれこそ東北の人間が見るような池ではない、見るための池じゃなくしているやな。まあソイツを前に、お、絶景、絶景じゃん、と脇の女の黒いパンティーが丸見えなのを川端康成みたいに、文学的に、虚心坦懐に、ジッと見入っていると、なんのことはないただの安っすい上野のオカマなんだよ、私の川端康成ゆずりの視線を返してほしい、ってズッコけやがる。写真美術館の、田沼武能の展示でああいうオカマみたことあるぜ、っていう、ヨッ、こんにちは、というオカマちゃんでさ、なんだろう、ああいう安っすいひらひらのスカート履いて、それで酒焼けした声でケナゲに「女」を演じていることの安さに比して、ちかごろ流行りの「性自認」なんていう言葉は、それよりもさらに安い、半値以下のシールが貼られたぴらっぴらの言葉だよな。こうして書いていて、どっちに肩入れしてんのかよっくと、わかんねえ文章になってきやがっけど、そら「性自認」くだらねえ派、上野のオカマ派だよなァ……っていや、べつに、なんでもねえけど、どうでもいいけれど、世界がくだらねえしこの文章じたいが心底くだんねえのは認める。自認する。とにかくその文脈上では、だ、上野のオカマ派、ヨッ。
 多様性とかさ、性自認とかさ、ほんとうに薄っすい言葉がブームにならざるを得ないくらい、世界ってのはシンドクなっちゃったんだね、「人間」つうもんが単体で成り立たないから、そのフリルみたいなもんに取りすがっているしかなくなってる、つーか。哲学者なんて人種はもう絶滅しちまったしな。スマホばっかりいじってら、そら、人間から味や深みがなくなってくもんだろーし、せいぜいが酒飲んで不忍池をうろつこうとしている他もねェ。小説のためのノートなんざちまちまと気狂いごっこをしてつくっていきながらね。気分良く生きてらなんとか転がっていくかもしんねーってか、そういうことにして、明るく生きよっか、今年はな。