本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

一月のひとりごと

 「新潮」の浅田彰インタビューに心躍らせる

 新しい年(ねん)がはじまって、殊勝に文芸誌などを開いてみると、浅田彰がインタビューを受けていて、さすが新潮は新潮だな、とおもうものがあるのだった。ニューアカといえば、今はもう、島田雅彦、とならないところがある。今の文学のシーン、というとシーンなどというものがはたしてあるのか、という話になるが、それでも距離感のようなものが感じられる――われわれはもう島田雅彦の問題圏から、遠く離れているのではなかったか。じっさい、彼自身もそれは自覚をしていて、自覚はしているのだけれども「徒然王子」とかあの辺のラインは島田はまったく上手くいっていないわけだしね。

 ようするに島田雅彦は小説が下手だ、という話へと、だんだん不穏なほうに入っていくのだが、それに比してちゃんとポストモダン小説を書いて来たのが、「新本格」の一部の書き手たちだった。ふた昔も前の話だ。その盛り上がりたるや素晴らしいもんがあって、都内の小さい書店に休憩時間の若いOLさんがガラッと入って来て、「メフィスト」はありますか、とか聞いていたのだから。だから、たとえば森博嗣とかはその景気に紛れてひと儲けしたパチモンなのだけれども、竹本健治とか、なによりも京極夏彦とかは、ちゃんとポストモダニズムしていたわけだ、すくなくとも島田雅彦とくらべると。

 一応補足をしておくが、探偵って探偵なんだよね、小説のなかの知的な存在であり、なおかつその小説の世界は作者が作り出したものなのだから、「探偵小説あるいはモデルニテ」みたいなのはミステリマニアの戦略違いで――ひとまずは(すっとばすけど)文明批評的な意識をもたざるをえないのが、探偵なの。チャンドラーや矢作俊彦の探偵はそうなっている。それとはちがって、サンボリスム―ヌーヴォロマン的な砂上の楼閣をつくりだす「ミステリー」市場というのがあって、換言すると、竹本健治や京極夏彦は、それをしっかりとやっていたよね、という話だ。

 なにが言いたいのかというと、「新潮」の浅田彰のインタビューなんていうのは、むしろ読者層的には、今の純文の人というよりは京極夏彦の新刊を喜んでいるミステリー(新本格)の読者向きなのですよ。ほんとうにね。
 けれどもミステリー読みは本当にバカで、不誠実だから。自分がなにを読んでいるのかわかっていない。たとえばミステリマニアとかがチャンドラーと並べて語るロス・マクドナルドなんていうのはなんにも自意識がなくって、むしろジム・トンプソンとかと並び語られるような悪文家です。ただのバカ、B級というのでいいのでしょうけれども。そうなってしまうと、法月倫太郎が非常に優れた中上健次論を書いて、推理小説を書けなくなってしまう、みたいなこと、どうだってよくって、面白い面白くないでしか語らないのですよね、ミステリーの読者って。本当にミステリの書き手って報われないな、とおもいますよ。

 まあその果実として、今あるのが、ミステリー小説のキャラクター小説化なわけだ。どこよりも講談社がそれに先鞭をつけて、新潮がNEXのレーベルでその市場に乗り出して、メディアワークスなんていうのも絡んで競争化が進んでしまう。もとよりも西欧思想の衰退なんざ、デリダの死を待つまでもなく約束されていたことなわけであってね、モダニズムとポストモダニズムの伴走者であった今のミステリーというか、「新本格」が、行き詰まっていくのは当然のことではあった。

 わたしも写真美術館の再オープニングの際の、杉本博司と浅田彰の対談を喜々として観に行ったミーハーだけれどもね、まあご機嫌に生きるため、格好よく生きるためには、ミステリー人前で読んでいちゃイカンわな、という話になる。

 現代音楽をめぐる浅い話
 音楽の話にしようか。ツジコノリコのライブがあったねぇ。じつに五年振りの日本公演、タイムスケジュール確認していなくって最初のDJからずっと聴いていたという。
 記事にしたから、いいとして。

Crépuscule I & II (AMIP-0309)

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 ウツ状態がやって来て寝込んじまって、フィリップ・グラスの浜辺のアインシュタインを流していたのだけれども、モリコーネ(昨年、伝記映画が公開。まったく、お腹いっぱいになる傑作だった)のような「自分は有罪だ」みたいな割り切りがみえないところが、グラスって弱いよな、とおもう。どこかで言っているのかもしれないけれどもね、その際にモリコーネを撮ったいい映画監督にめぐまれていたかどうかが問題になる、かどうかはともかく、どこかで言っていそうなものだが……だが、……しかし……。サントラでもおなじモチーフつかってしまう、そういうインテリ志向というのかな、それがどうしようもなくダサい(笑)。ダサいから聴く、というのもスノビズムなのかもしれないけれども。

 つまり、リッチー・ホウティンにフィリップ・グラスのオケをつかったトラックがあって、すると、リッチーがグラスで遊んでいるな、という強い感覚をもつ。
 すると、そうか、スティーブ・ライヒは別格で、やはり凄いのか、という話になる。
 ポーランドにキラールなんていうのもいたね。あれもダサくてね、映画音楽に身をやつしていくんだけれども、日本でそういう現代音楽のジレンマにあるひとだと、私は坂本龍一よりかは(彼は浅田彰が褒めてくれるわけだし。この記事は浅田彰が好きだな)、吉松隆というひとが私は大好きです。プレイアデス舞曲集はやはり、すばらしいものだとおもう。現代音楽にまつわりつく理窟というかさ、これは現代音楽か、現代音楽ではないのか、という問いたてが前提している区分(ちなみに坂本龍一も吉松隆も、現代音楽ではないでしょうよ)なんて、くっだらない、とおもわせてくれる。
 やっぱり自分の快楽とするものに、忠実じゃなくっちゃね。美と向き合っていることの自由って、あるんだよな。

Kilar: the Very Best of

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吉松隆:プレイアデス舞曲集(第I集~第V集)

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  • アーティスト:田部京子
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吉松 隆 : プレイアデス舞曲集 2

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 離人症について
 なんかむつかしい話をしていてもしかたがねぇから、性生活の話をするか。
 二次元にしか欲情できないんかねぇ、と素朴におもいながら「二次元にしか欲情できない」ってあんまり起こりそうもないよなともの思う。まずリアルで本当にセックスができなくなっている人がいて、その代替物として二次元では大丈夫、が正しいんかね、私の実感によると。
 だとしたのならば二次元なら大丈夫、ということよりも、セックスができないことのほうが、まず問題なのであろう。――イヤ、あれだな、たぶんそういう人って絶対に本当にいるのだから、むやみに、この問題を深掘りするつもりはない。
 というのはね、解離の人は空想傾向が強いから、二次元とかとは相性がいいのです。アニメ等の文化表象がやがてイマジナリーフレンドとなって「出会われる」ことがある。イマジナリーフレンドについては誤解が多いので、敢えて「出会う」を強調しておく。作るんじゃなくって出会うのが解離性障害のICね。

 それとDIDの人にクソリプ送るような人がICとかイマジナリーフレンドについて、それは診断基準に含まれていない、とかいうが、病理学的に解離性障害の人がICを持つ傾向が多いことはパトナムのモノグラフなどにもはっきり書かれてある。解離性障害で半分程度、DIDの患者さんの場合はより高率になる。DID(解離性同一性障害)、多重人格は詐病である、というアメリカ発祥のガセ(といっていいと思う。面倒くさいアメリカ的な歴史がある。詳細は岡野憲一郎先生の「外傷性精神障害」にあって、多重人格っていう言葉がひとり歩きして、自分も多重人格だ、虐待をされたんだ、と嘘の愁訴を起こして、そうするとその親たちが自分は虐待をしていない、という被害者の会みたいなのを作り出すくらいの、動向が起こったりしたの。虐待していないのにされたということにしている、というので、それはそのまま多重人格なんて存在しない、ということに彼らのなかではなりかねなかったわけだ)を未だに信じ込んでいる人もいたりで、解離性障害の「病み垢」の方はクソリプを送るヤカラに絡まれやすいんだよね。
 あらためて、離人症についてこれから考えていこうと思っている。考えることで治っていくよな、これ、となんか取っかかりがみえたことが数年前にあって、ヤッカイでやめた(離人症について、治ってくひといるよー、とカウンセラーが言ってくれたのが大きいのだけれども)。木村敏が面倒な存在でだな……ルカーチの概念をつかうからな、あのひと。「ハイデガーとルカーチ」という本もあるが、ハイデッガーのもとになったルカーチをつかっているんだけれども、そこの整合性かな、明示しない不自然さ……単に図式的なところ、が、私にはキツイ。

 知覚や意識の上で自分が存在しないように感じられる、世界が遠のいて感じられる、本当にそうなっているわけだが、「自分が存在しないように感じられる、世界が遠のいて感じられる」と言語化してしまうと文学的(ベター)になってしまう概念操作上の難しさが、離人症についてはつきまとう。
 やや一般化すると、それは診察室でもおなじで、「自分が存在しないように感じられる、世界が遠のいて感じられる」……みたいなことを患者の愁訴として、言語化をして医師に伝えるまでに、かなり時間の要される人もいると思うんだよね。確かに感じているのだが、その表現に至るまでが難しい。まあ人文書のレベルから、離人症についてはいろいろと考えていきたいとおもっている。