本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

ツジコノリコ(Tujiko Noriko)東京公演(渋谷WWW)――カミュの手帖を添えて

 それは夢の島であるのよりは真夜中にグロテスクな光の祝宴をもよおす、一種の工場に似ていた。MDの時代にはもう、そしてネット時代になって、浜辺の砂金をかぞえるのよりも途方もない量で殺到する、IDMの音楽たちの話である。たしかに私には、それらの音楽たちが工場を形成しているかのようにおもわれる。じっさい、工場であったり、廃墟見物をするようなひとたちの心持ちと、私たちの音楽にたいしてdopeであると感じ入る心持ちとは、相通ずるものがあった。
 廃墟は美しい。それは戦争を賛美した未来派の立場というよりは、焼け跡の美にたいする対し方であり、感性である。荒廃には、地理的荒廃をふくめ、精神的荒廃も――人を惹きつけるものがたしかにある。ジャチント・シェルシの安易にいって悪夢的とされる倍音のアプローチは、音楽理論につうじずとも、というよりもつうじない「安易」な地点からこそ、耳に心地良くも愉しまれる。狂人の母にそだった私が音楽の荒廃の美に惹かれ、工場にさ迷いこんだのは必然であったのか。M5MDのMDを聴くことに自己愛的なまでの快楽をおぼえていた古い時代を、みずからの狂人そだちとときとして同等に、ほこらしげに回顧できてしまうのは、今なお私が、荒廃に惹かれているからであったのか。
 そこには明確な地図はない、地図による整序がなされないまでに音楽は日々、量産をされ、聴かれもしないままに消費をされる。ただ選民達が秩序らしきものを、輪をつくってはかろうじてかたちらしきかたちを成す。ただ選民達によるスノビズムだけが、その場に、たしかな共通の了解をのこす。ひと昔前には、音楽サイト上でさまざまな国籍のひとが集まるコミュニティで、互いに音楽を紹介しあってきた。日本人は私ひとりで、そこのオーナーのひとりであるフランス人がなぜか私を好いてくれていて、いい音楽を千も二千もしることができた。私たちは耳の共同体であった。サイト上でなく、クラブハウスにひとりの音楽家をもとめて選民達が集まることは、日本ではなかなかむつかしいとおもっている。公演は日々あっても、スノビッシュな好奇心であり満足の感覚を充たすための公演は、(いうまでもなく)すくない。いうまでもなく、であるからスノビズムなのだろう。
 渋谷のハコに行く。そこは地階にある、イギリス製の質のいいスピーカーをもった、元映画館であったハコであった。じつに渋谷らしい来歴を有したハコということになる。

 ひとは――ロマンチスムはなくとも――過ぎ去った貧乏な昔に郷愁をいだくことがある。惨めな生活をした数年がつもりつもって、やがてはそれがある感受性を形成してしまう。こうした特別な場合には、息子が母親にいだく奇妙な感情が、「かれの感受性全体」を決定するのだ。ありとあらゆる面にあらわれるこうした感受性は、少年時代の潜在的で物質的な思い出によってじゅうぶんに説明される(それは、魂にからみついて離れない鳥もちのようなものだ)。
 そのことに気づいた者には、そこから感謝の気持と、したがってまたある種のうしろめたさが生れる。そこからさらに、また比較から、もし境遇が変ると、なにか冨を失ったという気がするものだ。
 カミュ「太陽の讃歌 カミュの手帖――1」高畠正明訳

 私にとって荒廃はその意味での若さであった。私はかつて荒廃した家に生を受け、それに由来をした感性からパンクロックや電子音楽や現代音楽に重くもたれかかり、それらが悠然と、いとも軽やかに私のことを受け止めた。今でも私はそれに一抹の、郷愁というほどの味も質量ももたなくなった郷愁をもった。婚約者がいる今であっても、実母の狂気から展延された夢の島に心は寄せられていた。それがある部分における自分の使命だとすらおもっていた。しかたのないことだったのだ。ツジコノリコの演奏がはじまった。私は、私たちは耳を澄ませた。なんという私たちだったであろう。