音楽であれ演芸であれ、スポーツであっても、はじめにみえている世界とは、広大さを有するぶんの困難さを要求をする、広大な、はてしもない広がりそれじたいとなった世界なのである。
そこでは、結句、私たちは、形のない世界を生かされている。フレームが、額縁が、その輪郭さえもが、欠落をしている。
だからこそ私たちはこの世界に惹かれた。惹起をうながされた。そこが今、目の前にひろがる狭小なそことは異なる、圧倒的な豊かさを見出しえた、見出してしまった、と同時にその時には賭け金がつりあがっているたった一つの世界に、投機をしてしまっている、世界が、豁然とひらける。
私たちは書物を開きそこに広がるものをみた、スポーツをしながらそこに広がるものをみた。
そのときに世界は信じがたい迄にひろい。
フレームをみずからで作れ、と言われる。
豊穣さが豊穣さであるぶん、自らの自らを保つことが試練にかけられる。
どのように制限をかけるのか、どのように自らのつつましい火をともしていくのか。湖の中心で水を求めている。
自由であるから、そこに惹かれた、はずであったのに。
百千の わがいつはりを噛みくだき 神々の面に にがきつば吐く
土屋文明「新短歌」