本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「真に偉大な作家は、ものを書こうと欲しない」――ウィリアム・ジンサー「誰よりも、うまく書く」、ヘンリー・ミラー「薔薇色の十字架 セクサス」

 どのように怒るのであっても、世界を呪うのであっても、――またはただある事項についてのなにかの説明を成すというのであっても、文章を書くという行為は結句、垂直な祈りに似た行為とならざるをえない。そうあるほかないのだ。いかなごろつきによる、非生産的な営みとしての書くこと、であっても、そこでは書くということの達成が企てられ、企てが企てであることが、純粋な力で、願われている。書く以上、人になにかを肯定していてしまう。もっと実用的にそれを言い換えれば、たとえば、こうであってもよかったのだろうが、

 どんなものであれ、創作はつまるところ問題を解決することである。それは、どこに行けば事実を入手できるかという問題かもしれないし、素材をどう系統立ててまとめるかという問題かもしれない。あるいは、アプローチの仕方、執筆の姿勢、文体や調子の問題かもしれない。何にせよ、それに立ち向かい、解決しなければならない。ときには正しい解決策が見つからずに落胆することもあるだろう。何の解決策も思いつかないことだってある。そう言う場合には、こう考えるかもしれない。「九十歳まで生きても、この泥沼から抜け出せそうもないな」、と。私もしょっちゅうそう考える。それでも最後には問題を解決できるのは、五百回も盲腸の手術をこなしてきた外科医のように、前にも同じ場所に立ったことがあるからだ。
ウィリアム・ジンサー「誰よりも、うまく書く」染田屋茂訳

 いくぶんかプラグマティックな調子だが、しかし文章を書く人のための教則本なのだから、プラグマティックであることがここでは求められているのだ。こう云ってもいいだろう。村上春樹の小説は弁証法的に、彼のキャリアをつうじて前へ、前へととにもかくにも、進み続けたが、彼当人は絶望を書くことによっても救済をえることはできないのだ、とあるエッセイ中に書いている。小説を書くことによって救済はみられないが、絶望についての、より具体的な地図のごときものを手に入れることができる、そしてそれはひとつの救済の片鱗のようなものではあるのだった、と。彼の作品のある種の明るさとは良いコントラストをなす、厄介で、暗い言辞だ。
 それでもまだ、このような言い条が変わらずに「実用的」に過ぎ、平板な、耳慣れた言辞にしかきこえないのだとしたのならば、そこにはこうした事情があったかもしれない、

 書くということは、ぼくの考えでは、無意志的な行為でなければならぬ。言葉が、深い大洋の潮流のように、それ自体の力で表面にうかびあがってくるのでなければならぬ。子供は、ものを書く必要がない。彼は無邪気なのだ。大人は、おのれのまちがった生活によって鬱積した毒物を吐き出すために書くのである。彼は、おのれの無邪気さをとり戻そうと試みる。だが彼が(書くことによって)なしうるのは、せいぜい自己幻滅のヴィールスを世間にまきちらすことくらいだ。おのれの信ずるところをやってのける勇気をもつかぎり、人間は一語たりとも紙に書きつけたりはしないだろう。ものを書く人間のインスピレーションなんてものは、そもそもその源泉においてゆがめられたものなのだ。もし人間の創造しようと欲するものが真理と美と魔術の世界であるなら、なぜ彼は、おのれとその世界の現実とのあいだに何百万もの言葉を挿入しようとするのか? 彼の真実欲するものが他の人たちのように権力や名声や成功でないとすれば――なぜ行動をあとまわしにするのか? 「書物は人間の死の行為だ」とバルザックは言っている。しかも、真実を見抜いた彼は、ことさらに天使を、おのれにとりついた悪魔の手に引き渡したのである。
 作家は、政治家やその他の香具師どもと同じく、恥も外聞もなく大衆にへつらう。医師のように大衆の動向を触診し、処方箋を書き、地位を獲得し、一つの権力として認められようとする。たとえ千年後にくりのべられようとも、なみなみと注がれる追従を受けたがる。即座に築かれるような新しい世界を彼は欲しない。そんなものは自分に適しないと考えるからだ。彼が欲するのは、そのなかで自分が無冠の傀儡的支配者となり、まったく自分の支配力を超えたさまざまな力によって操られるような一つのありうべからざる世界である。彼は狡猾に――諸象徴の織りなす仮構的な世界のなかで――支配することに満足する。生まのままの荒々しい現実と接触することは考えるだけでも身の毛がよだつからである。たしかに作家というものは、真実に対して、他の人々よりも深く大きな理解力をもっている。けれども、そのより高い真実を、例証の力によって、いやおうなく世間に押しつけようとは努力しない。彼はただ説教し、災害と破滅の跡を追って、ものうげに歩きまわり、死を告げる予言者の地位に甘んじている。つねに他から尊敬されず、自分の能力の適不適などにおかまいなく世間日常の事態に対して責任をとるつもりでいる連中から、つねに石を投げつけられ、つねに疎んじられる。真に偉大な作家は、ものを書こうと欲しない。
ヘンリー・ミラー「薔薇色の十字架 セクサス」大久保康雄訳

 これはいかにも「作家」的な文章、作家が作家について書く文章であっただろうか? たしかにヘンリー・ミラー特有の饒舌もあいまってラディカルに過ぎたかもしれないが、この巨人の前にあっては文章が生み出すとされる諸々の「解決」とやらが、ちょこざい、「狡猾」な方便にしかならない。ミラーもその小説家ではないか、今まさに小説を書いているそのなかでこう書いているのではないか、というような言い様は、二の問題を扱っているにすぎない。かくのごとき怒りは、書くということがひとつの和解であり祈りであり、自己肯定という名の自己規定であること、に由来をしている。自らが「書いてしまう」、自作の「傀儡的支配者」となることとは、人間にとって、そもそもが自らを見限った上でしえ成されえない、妥協のといおうか、ひとつの世界を構築せんとするがためにそこにある「現実」を捨象するという、覚悟というには顛倒をした覚悟に、ほかならぬ行為であるということを、指弾しているのである。ここでは書くという祈りの行為が祈りであること、しょせんひとつの自己肯定の自己肯定であること自体が、呪詛の対象となっているかに、おもわれる。
 書くことはたやすく、一篇の物語を書ききることも、もはや子供ではない私たちにとっては、たやすい。そして書くことをこいねがう人間が、「書こうと欲しない」こと、自らの祈りの単に祈りであることを厭い、わずらい、世にはびこる「小説」なるものに唾棄をして、そこからこそなにかを、結句、書き出そうとすること。