本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「個とか私はいらない」――ブーバー「忘我の告白」、「ミハーイル・バフチーンの世界」、「解離の舞台」

 素朴な疑問なのだが、対話と言い出すひとにかぎって、自己帰属感がひどく薄いのはなんでなのだろう――。と、私がここで念頭においているのは、解離性障害の解離という概念であり、バフチンとマルティン・ブーバーの存在である。バフチンはポリフォニー小説ということを言い出し対話的存在、ということを提唱して、精神医学の分野でオープンダイアローグなどに参照(あれは正しい参照であったか、どうかはべつとして)されたり、ほかの分野でもひと昔前にさまざまな仕方で注目をされていたような人であり、ブーバーも「我と汝」をはじめとして、人気がたえることがない哲学者といっていい。対話という時に、この二人は重要なキーパーソンなわけであるが、バフチンというひとは変節漢といってしまうと、さまざまな時代状況を鑑みた上での語弊があるのかもしれないが、我が強いタイプのひとではなく、ブーバーもなにか哲学者としての強い存在感を示すという型とはことなって、茫洋としてる、なにか神秘主義に惹かれてしまうところがある。ブーバーには「忘我の告白」という、神懸かりになった人たちの記録をまとめた書物があるのだが、これなどは解離の人たちの症例集といってもいいだろう。これは、修道女について書いた文章だが、

 彼女はまたはっきりと観た、それがなんであるかを、すなわち、眼と眼を合わせて神を観るとはどのようなものであるかを。がこれについて語ることはできなかった。彼女はまた、どのようにして子が父から永遠に生み出されたかということ、そして存在する歓喜と喜悦のすべてが永遠なる誕生のなかに安らっているかということを、はっきりと観、かつ識ったのだが、神の永遠なる存在の内部になおどれほど深く入っていったか、そのことについては言うことができなかったし、またわかってもいなかったのだ。というのは、彼女はそこでは自己を失ってしまい、自分が人間であるかどうかもわからないほどだったからだ。そののち彼女はふたたびわれに返り、他の人間と同様なひとりの人間になり、他の人間と同じように信仰し、そしてすべてのことをそのようにおこなわなければならなかった……。

 または

 時として私の状態はひとつの夢に似るが、私が夢みることは人びとには不信仰のように思われる。私の眼は眠っているのに、私の心は目覚めている、私の肉体は強ばっているが、それでいて衝動であり、力である……。あなたがたの眼は目覚めているのに、あなたがたの心は深く眠っている。私の眼は閉じていて、私の心は開かれた門のところにある。私の心にはそれ自体の五感がある。私の心のこれらの感覚は二つの世界を経験する。あなたがたのような弱い人間が私を欺いてはならない。あなたがたには夜と思われるものは、私には明るい昼であり、あなたがたに獄舎と思われるものは、私にはひとつの園である。
   マルティン・ブーバー編「忘我の告白」田口義弘訳

 斎藤環の「解離のポップ・スキル」という解離性障害当事者からみて酷い著作をみるまでもなく、解離という言葉は厳密に定義をしなければ、だいぶん遊びのある概念であり、ともすればなんでもかんでも解離になってしまうが、柴山雅俊(解離の精神病理学についての著作がある)の世界もかくや、といったところだろう。逆にいえば解離の世界に慣れれば、この種の宗教的体験に大きな神秘性を見出す必要もなくなるところがある。であるから、ひとまず、ブーバーのこうした本は解離の症例集のようなものだ、というほうが、ブーバーが神秘主義に堕している、というのよりはまだブーバーに優しい、ムゲにしていることにもなるまい、とおもわれるのである。

 バフチンの場合にはまた様相がことなる。もろに神秘主義に惹かれる、ということではなく、そのキャリア自体が「解離」的なのである。もっともわかりやすくいって、自己帰属感が薄い、薄すぎるのだ。その自己帰属感の薄さが彼の資質となり、離人症的なその資質が主題を決定づけている、とまでいうと、大きな仮説になってしまうが。これはバフチンの伝記の書き出し部分だが、

 ミハイール・バフチーンほど、世界が差異に充ちていることに魅せられた思想家は数少ない。バフチーンの経歴はわれわれを当惑させるような種々の矛盾にみちているが、皮肉なことに、そうした矛盾を首尾一貫した全体にまとめあげる際に導きの糸となるのは、多様、非反復、不一致といったものにたいする彼の執拗な関心である。「群盲象を評す」というが、バフチーンの幅広い活動のどこか一部に接した批評家たちは、彼の生涯と思想にたいしてそれぞれ異なった印象をつくりあげ、そのいくつかは互いに矛盾しているように思われる。
 そうした矛盾が生じたひとつの理由は、バフチーンのすべての仕事が複数性、すなわち「一」と「多」の神秘、という星のもとにあるということである。しばしば名を偽って、形而上学から集団農場の簿記法にいたるまで驚くほど幅広い主題について著作を発表した、という表面的な意味でも、そのことはあてはまる。しかも著作によって、それぞれ違ったイデオロギーにもとづいた言葉で書かれている。新カント派の伝統にのっとったものもあれば、マルクス主義の術語を用いたものもあり、真正スターリン主義の用語で書かれたものすらある。もっと本質的なレベルでは、テクストそのものの中に何人ものバフチーンが顔をのぞかせる。たとえば理論的著作の中で提唱された説が、より個別特殊的な研究の中で愚弄されることもある。ソ連の専門家たちの間ですら数多くのバフチーンが見出される。彼らはバフチーンを、反体制的ロシア正教会から革命翼賛的アヴァンギャルドにいたるまで、さまざまな思想運動と結びつけてきた。
   カテリーナ・クラーク/マイケル・ホルクイスト「ミハイール・バフチーンの世界」川端香男里/鈴木晶共訳

 テクストを書く、ということと向き合った時に自己像がばらばらになってしまう、のであったか、もとから自己像が砕けているがこそテクストがそのようになっていったのだったかは、議論の必要とされる点であっただろうが、どうであれ一種の病跡学はこのような例をして解離性障害や解離性同一性障害の診断名を下すべきではなかっただろうか。すくなくともバフチンを読みついできた私は、はじめポリフォニーの概念に惹かれ読んでいたはずだったのが、次第に解離の精神病理と文学との結びつきという問題に逢着していくのを、強く実感してきたわけである。これは柴山雅俊の著作の「解離型自閉症スペクトラム障害」の章節からの症例だが

 私は自我を消そうとしている。自己は周囲の環境に合わせる。自我はいらないんです。出てこようとすると消すんです(急に涙が溢れ出てくる)。自分のやりたいようにすると怒られてきた。はみ出さないようにしてきた。生きていくうえでどこに主体としての私を置いていいのかわからない。つねにいろんな見方があって、統合されずに揺らいでいる。私は錨を下ろしていない船のよう……。

 私は社会のなかの構成要素のひとつの部分。いつか全体を把握したい。私は粘菌アメーバのようにその場で変わって相手に合わせる。相手を否定しない。人に合わせるのが疲れるので透明人間になりたい。実体のないモノになりたい。人気がないところで、ひとりでいたい。私にとって蓋が名前なんです。私には蓋の力がない。何らかの生命体に溶け込みたい。個とか私はいらない。人間を越えた、大きな生命の流れと一体化したい。生まれてきたことが嫌なんです(涙をぽろぽろと流す)。あんなに辛い、何から何まで辛い。わからないので不安だった……。
   柴山雅俊「解離の舞台」

 単純に考えれば、むかし、(本物の症例をひいたあとで、あまり適切な例ではないが)シャルル・モーラスという耳の聞こえない詩人があって、耳が聞こえないということはすでにして離人症的なのであったが、彼はその資質に由来をして熱狂的な反ユダヤのファシズムの運動の牽引者となってゆく。世界が遠いがゆえに、混乱と熱狂とを、世界に飢渇をする。それと同等に、自己を感じることができず、できないがゆえに、つとめて自己を放棄をする、またはそれこそ多重人格のように他者を自己として取り込む、そうまでいわずとも、自己が不在であるがゆえにこそ他者との「対話」がそこで尊重されていくのであったから、解離性障害の生存戦略と軌を一にするところに、バフチンでありブーバーの思索は置かれていたと、そう考えることはあながち間違いではないであろうと私は考えている。