本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「ことなる心地するにつけても、ただ物のみおぼゆ」――スタンダール「エゴチスムの回想」、ブルーハーブ、建立門院右京大夫、ジャンケレヴィッチ「還らぬ時と郷愁」

 ペンを手にして、自分を反省したら、なにか確かなもの、わたしにとってのちまで真実であるようなものに達するかどうか。一八三五年ごろ、まだ生きているとして、読みかえしたら、これから書こうとしていることを、自分ながらどう思うだろう。これまでのわたしの著書にたいする気持と同じだろうか。ほかに読むものがなくて自分の本を読みかえすときは、つくづくやりきれない気持になる。
   スタンダール「エゴチスムの回想」小林正訳

 ここまで続けてみて初めて 消えてった奴等なりのワケも見えて
 店閉めて ネクタイ締めて 頑張ってる奴に半端な音は聴かせられねえ
 趣味で和気あいあいな奴等は 俺等とは区別させてもらうぜ すまんが
 悪く思うなよ 腹違いのBROTHER これがアンダーグラウンドVSアマチュアさ
    THA BLUE HERB「介錯」

THA BLUE HERB

THA BLUE HERB

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 塾講師やコンサルタントでもあるまいし、夢という言葉を安易につかう人間に、ろくなのはいないと知っていた。じつは落とし所などというものは、夢を追う人間にはみえてなどいないのであって、但し、自分は賞とかデビューするとかいったことは関係ないから、とやっているやつはどうしようもないし、デビューがしたいんです、お金もちになりたいのです、と世間しらずをやっているやつも、どうしようもない、嘘っぱちなのであって、では一体なにが嘘っぱちではなく世間しらずではない本物なのか、などということは、文章などという吹けば飛ぶような代物をあつかう、文章家などという虚業を前にして、のべつだれの耳にもとおる講釈などの、できようもないのであった。
 冬眠をしたように全身に力の入らない時であれ、身体のなかをべつの生き物が逞しさを発揮をして動くことを、感じたことはままあったのだった。繁華街で酒に溺れている時であれ、仲間のための借財に追われて自分はなにをやっているのだろう、とあっけにとられている時であれ、長い年を経て不惑を迎えた今であれ、どうであれ、なにかが残ってしまった、冬眠のなかでも神経を働かせている生き物を飼っていてしまう、その生き物が私なのか私がその生き物であったのか、区別や、境界線をひくことが、自明に過ぎて煩雑になるまでに。答えなどというものはいつも一つの透徹のなかにあり、いかに小説を書きたくない、とうなされて起きた日も、ワープロの画面と向かい合うとタイプする指先はおやみなく打鍵を続け、時折、私がたてるその音を私が、耳を澄ませて聞いている。もちろん、いつも、起こっていることはといえば文字が吐き出されていくそれだけのことだった。

 ひきのけて空をみあげたれば、ことに晴れてあさぎ色なるに、光ことごとしき星の、大きなるが、むらもなく出でたる、なのめならず面白く、縹の紙に、箔をうち散らしたるに似たり。こよい、はじめて見そめたる心地す。さきざきも星月夜見馴れたることなれど、これは折からにや、ことなる心地するにつけても、ただ物のみおぼゆ。
 月をこそ 眺めなれしか 星の夜の 深きあはれは 今宵知りぬる
   建立門院右京大夫

 むかしの話など、どうだっていい。現代において、小説を書き、新人賞なぞというものに投稿をする営みが、どれだけおろかしいことかというに、「夢」などという歯が浮き過ぎて総入れ歯になるような美辞をつかっていられる、わけもない。権威と制度がありしっかりと構造化されたシステムのなかで、事業となった文学に参加をして、文学全集の編集委員となり、知識人の席を奪い合い、新人賞の選考委員となって銭をかせぐ、そうした人種にわざわざ、なりたいというのであったのならば、それを変わり者や本好きという枠組みにだけおさめておくのは、おかしい、根っから腐りきった奴らが私たちなのではなかったか。すくなくとも、そのような惨憺たる現状を知りもせずに、小説を書くのは楽しい、だのと言い、言葉の力がどう、だのと唾をとばし、それらしい格好をして原稿をタイプする人間の顔を、私はみたくはない。見飽きたからだ。文学まわりのなにかを追い求め続けて、よくて俳句趣味にでも落ち着いて、文学館の講演会にくりだしているような高齢者たちの群れをみるまでもなく、神保町の喫茶店で人相見をしているまでもなく、見飽きているのだ、芸術家たちを。そしてそのくせ、芸術などというものが、この世に、滅多に生起しはしない現実を、なによりもみている、みつめ続けているからだ。たとえばこのキーを打鍵をするこの指先にすら。
 なぜ書いている? なぜ書くことが私の身に残った? いつでもみえている。だがそれを言葉にしようとすると、あまりにも明るすぎてみえなくなるだけだ。

 時による消耗と忘却に耐え、物理的な抹消にも暴力による消却にも生き延び、霧散させることも溶解することもできないこの取り消せないものに、なんという名を与えるべきだろう。この引き抜くことも根絶することもできないもの、まったく常軌を逸した頑強な生命をもったこの抹消できないもの、それはただたんに実存に対立する裸の本質なのだろうか。それは触知できず、しかも、われわれの自由に抵抗する宿命の枝だ。
   V・ジャンケレヴィッチ「還らぬ時と郷愁」仲澤紀雄訳

 

 厚い層をともない心臓の真ん中、ごろりと埋めこまれたたった一個の事実。それはただモノといったほうが近いようだ。