本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「土地っ子としてのわたしと、ストレンジャーとしてのわたし」――池田弥三郎「銀座十二章」

 食べもの屋を食べあるいていると、悲しい、悲しい、ほんとうにやるせなく悲しくて痛い、身体の痛みとなった瞬間には即座に記憶の痛みとなる、痛みに出くわすことになる。と、そう、書き出してしまえば私の場合に銀座のラーメン店であったり(あのイタリアン出身の店主がつくる酒粕ラーメン、旨かったなァ……)、歌舞伎座の真横に位置をしていたフレンチであったり(食後のコーヒーまでもが絶品だったのだ。きっときっと、これはもう絶対に、なくなるべきでは、なかったのだ)、有楽町の交通会館のなかの炒飯(あの黄金の炒飯にまさる炒飯にまだ出会えていない)、とか、そういう、豪奢というほどのものでもない、つましい田舎者なりの、記憶になってしまうのだけれども……。
 「よし田」が移転することになって、あれ、どうしてしまったのだろう、と沈思にふけって酒どころの話では、なくなったり。

 銀座の飲食店についての、そうした記憶をたどってゆくと、わたしと銀座との関係が、二つあることに気がつく。それは、銀座に住んでいるわたしとの関係と、もう一つは、盛り場としての銀座へ出入りをする、客としてのわたしとの関係である。つまり、土地っ子としてのわたしと、ストレンジャーとしてのわたしという、わたしの側の二側面が、銀座の飲食店の思い出に、多少、普通の人と違った起伏を与えているように思う。
   池田弥三郎「銀座十二章」

 まあ、わかる、わかるということにしなきゃ田舎者としてはおさまりがつかない災害になっちゃうから、わかる。
 けども初めての飲食店に入るっていうのは旅客として、どうあれ、入るというのだともおもう。それはふとすれちがった、すれちがってそれきりだったはずの路地の店に何らかの理由をもって入る、その瞬間の諦めと一抹の期待。その期待に応えてくれた時の、にぎやかなることと、ふだんと同じはずの銘柄の酒の効験の、はなばなしきこと。ひとが、料理人たちがいるということ、その厚みを記憶にきざみたいから、だから飲食店をつい、まわってしまう、一軒の店屋に通い続けるのとはちがう軟派さをもっていてしまう。
 嫌になるのだ、田舎にすんでいると、田舎のまずいメシを、地方名士きどりでSNSなんかに、あげているやつがいて……。それもそれであそびであり、私たちはあそぶ為に生きているのだったけれども、あそびにも高い低いがあるのであって……と、言うと、だから、だからになるからいいのだけれども。