本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

芸と大食(九)

暇があるとどうしてもメゾンエルメスに入ってしまう

 東北の地方市街地で蕎麦を食べるということに、どう解決を見出したものだっただろうか。
 私がヤッカイなのではない。落語でも聴いていただければわかるとおりの、蕎麦という代物はまごうかたなきヤッカイな代物なのであって、それは、定年退職後の趣味としては安易に開業をするのには、扱いかねるほどのヤッカイさなのである。一体全体、東北で蕎麦を食べるというのはどういう行為か。
 私だって、岩手でわんこそばを食べて、百杯達成をしたというので、おおいに喜んでいたりした人間ではたしかにある。だが、そういう話ではない、田舎にとどまる田舎者である以上は、食としての蕎麦というものは、ひとつの難問なのだ。ひとまずは、田舎者の宿命として、そう捉えるしかない、そうでなければ自覚なき田舎者としてさまよっているほかなくなるのが、蕎麦、なのだ。
 簡単に旨いだけのものをつくってしまう店が、猖獗を極めてしまうのには、理由がある。
 あんまり、こういうことを言うといけないのだろうけれども、旨い蕎麦というのはそれをつくるだけであったのならば、じつは簡単なものだとおもう――ほんとうにハイブラウな蕎麦屋はべつとして。
 そうではないのだ。
 蕎麦というのは蕎麦それじたいではなく、内装であったり器であったり食べさせかたなりについてくる、店主の美意識、そしてこっちでもすこし酒をひっかけて、ちょろっと蕎麦というものを啜る、その足取り、趣きにおいて、重要なものが秘せられたる食べものなのだ。
 あいだみつをや金子みすゞの書画を平気で飾り、ここの蕎麦はどこそこ産のそば粉をつかって作っていてという文言で客を脅迫し、棚に地酒などをずらりと並べ、店主が職人でござい、という顔つきをしてつくる蕎麦など、蕎麦というにはあたらないと、私はおもっている。つっかけで店のなかに入って蕎麦をひっかける、――じっさいにどんな靴を履いている、いないなどでなく、この「つっかけで」が非常に尊重されるべき風趣であり、態度なのだと、私はかんがえる。
 だから、並木藪とか、神田でも上野でもいいけれど、……は、受けつけることができない。
 藪はたしかにせいろの上、蕎麦は旨い。けれども、暗く落とした照明で、クナッパーツブッシュかなにかの大振りなタクトを聴きながら、なぜ蕎麦を食わなければならないのかと、所在なくなってしまうではないか。
 それであるのならば、やや極端にいって、立ち食いの蕎麦のわびさびのほうが、まだ要点を押さえている。私は蕎麦っ食いとしては立ち食い蕎麦屋礼賛派である。まさしくつっかけで入るお店なのであったし。

 蕎麦について、私が話をすることそのものがナンセンスだったのだ。私にはいつでも「よし田」がみえている。
 「よし田」は、くわしい話はあとに譲るとして、そのような私に、いつも、非常におさまりのいい席を用意してくれるのだった。
 だれでも居ていいのだと許される、至極まっとうな席の居心地と、割烹着の女給さんたちの、女将さんの落ち着いたものごしと、どのような理窟も用意しないでいていい気軽さと。
 なんでも、コロッケそばのはじまりの店だそうだが、それは食べたことがない。まだ東京を知りたてのころは、一番廉いもりそば。それを大盛りで頼む(文字どおり、ハングリーだった若いころの話だ)。ランチになると、そいつにおにぎりがついて来る。どうも酒飲みの蕎麦屋の使い方ではないし、こうした店でもりやせいろを頼むのは野暮ではあろうが、ともかくそうした使い方をすることから、私は「よし田」と、付き合いはじめた。まもなく、今の場所に移転をしたが、風格はかわらない。
 かわるわけがない。
 
 そうして長い年月を経て、十年、二十年ちかくと時を経過していくうちに、きづけばよし田はいつもそばにいてくれて、あそこの店越しに、街というものを知っていったのだというある種の感慨にすら迫られている。
 その感慨というものも一言ではけして言い表せぬ、得がたいそれであり、ほんとうに、ずっと通っていてよかったと、「よし田」のことをおもうと感謝の念を通り越したなにか、祈りのような存念ばかりが湧いてくる。
 蕎麦屋というか、飲食店との付き合いというのは、そういうものだろう。それを初めて、実感させてくれたのがよし田の蕎麦であり、大恩があると、勝手都合で、私はおもっているのである。

福島市の「よしなり」

 田舎では、カフェーのようなスタイルの福島市の蕎麦屋とすこしだけ、親しくしているか。柳宗悦をちょいとかじったような(実際かじってくれていればまだしも増しなほうなのが悲しい状況にある)、民芸品を置いているような蕎麦屋など、目も当てられない。あんな単純な蕎麦という食べもの。その蕎麦の旨さが蕎麦だけの旨さでできると、おもっている時点で、察しがつくのだ。