本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

芸と大食(十)

 もののついでに、うどんの話をしてみよう――。蕎麦とはまたことなったヤッカイさがついて回る、のだろうか、うどんというのは……。むずかしくなど考えないでいいものの最たる食べものだ、うどんは。
 うどん、というその言葉の時点で、うどんというのはどこか素っ気ない。江戸前だ、なんだという洒脱さとは無縁にして、無骨にしている。
 それでもうどんについて語りたくなるのは、神保町に「丸香」があるからなのだろう。
 うどんに旨いも、不味いもないもんだ、と私も、丸香に出会うまではおもっていた。
 銀座にも香川のうどんがあるのだけれども、私はがんらい、讃岐うどんのシステムというものが好きではない。うどんをひと玉か、ふた玉かを選んで、かき揚げやきつねなど手前の好みでトッピングを選んでいく、というのが、どうにも飲食店としての良心を欠いているようにおもわれてならないのだ――そこまでいわずとも、要は、お店をやっているのだからそっちで自分のメニューをつくって置いてほしい、となる。
 もちろん、銀座でうどん、というのがいかにも滑稽で、場違いで、語呂も悪い、というのもある。つじつまが合わない。王子ホールでコンサートを聴いたり、メゾンエルメスやらの画廊で展示をみたあとに、じゃあうどんを、とは、ならない。すくなくとも小説では。
 それが神保町であれば「丸香」のうどんがある。

 ふわふわの、腰はあるのだけれども、口のなかで溶けていくあの食感のうどん。出汁も、そうか、出汁とはこうだったのか、という発見をうながすくっきりとした出汁でありながら、けして脅迫的な響きをたてることのない、いきいきとした鰹だし。これは本当に美味しい、ほんとうに……と、長らく親しんできたはずの、うどんというものとの出会いに、感動をしいられる。
 といって、神保町は神保町で、食うものが多すぎてこまるし、酒飲みは行列になど並びたがらないものだろう。
 酒飲みには俄然、恵比寿の「山長」がいい。
 器等の趣味はハイブラウというのとはちがうがしっかりと意識を行き届かせているのがわかって、好ましいし、その皿に載ってやって来る酒肴のどれもが、輪郭をくっきりとさせていて、旨い。そしてだらしなく酔っ払っている処に、鳴り物入りでうどんがやって来る。このうどんが、手前が酔っ払っているがためにみている幻ではなかろうか、と見まがうばかりの上出来で、これまで小さなパンチを送ってきてくれていた皿たちの、全部がどうでもよくなる。皿のむこうには、こいつが居たのか、こいつを食わせたくて、酔っ払わせていたのか、と私たちは快活に、迎え入れるしかなくなるうどんなのだ。
 池袋とかにいけば武蔵野うどんも食える。こいつが、ともすりゃ「風雲児」のつけ麺なんかよりももっと食べ応えのある、うどんなんだ。腰、という言葉では解決のできない、どうしようもない、噛み応えがあって、噛んでいるうちに小麦の味わいに、飲まれていってしまう。
 立ち食いで、さらりと、といかせない、てんから野暮が身についているのがきっとうどんという食べものなのかもしれない――本郷の駅前に立地する、立ち食いうどんは、うどんが出てきてああこれ旨いうどんだ、となっていると、びっくりさせられる。おまけにかき揚げがついて来て、そのかき揚げが、とんでもなく巨大なのだ。
 大学の真横にあるデカ盛りのお店みたいに、かき揚げが、でかい。甘くみていると痛い目に遭う。五〇〇円とかの食券を買っただけでなんでこんな目に遭わされなきゃなんないんだ、と後悔をする。
 そうか、そういうのがうどんなんだよな。なんか、かげんを知らない。田舎から出て来てちょっと世間からずれている。
 食べる、食べ続けてなんだこれはというものに出くわすというのは、発見を求める心がまえがこちらにある、ということであり、自分のなかにある当たり前をめくり返すのには、うどんというのは、それこそリーズナブルに、自らのしごとを立派にしてのけてくれる。たかがうどん。されどうどん。そして本当に旨いうどんを食ってからのちも、そのように、たかがうどん、と言い続けることになる。うどんというのは、不思議な食べものだ。