本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

芸と大食(八)

 その話をしたのならば、数寄屋橋付近、泰明小学校を窓からのぞむオーバカナルのパナッシェに、私はふれずにはいられない。
 食に親しんできただれもが、酒についての個人的な来歴をもっている。ラーメン店ばかりにかよっているのではないかぎりは、食事をする、ひとつの自分の店屋をもつということは、そこで酒を飲むという行為と切って離せないのであったから。
 私は、はじまりはジンだった。二十代のはじめのうちをビーフィーターだ、タンカレーだといってジンを飲み、つぎにワイン。まだリーマンショックの前で、格安で、とんでもないワインをグラス一杯から飲むことのできた時代があった。そしてスコッチに入り、今はめっきり弱くなったのか、ビールばかりを飲んでいる。
 銘柄にたいする拘泥がなくなっていくのは、悲しい。悲しいのだが、悲しさのなかで、細い線で描くように、ふっと、出会ったのがオーバカナルのパナッシェだった。


 なにをそんな甘い酒をとバカにする、だろうか。
 バカにされても致し方がないのにちがいもない。
 だがオーバカナルは心がやすらぐ店だ。フレンチの好事家というよりは、由緒ある酒飲みであったのならば、そこにはだれしも納得してもらわねばならない。そうでなければ、酒飲み、というものの意義が、私の辞書とはだいぶんちがうということになって、話がまとまらない。
 ドアーを開くと、ほうっとした広がりと空間感があり、料理をポーションで頼んでは、ひとりで飲んでいてもあわただしくならない。そのひとつびとつの皿のかっちりと味にかたちを帯びた仕上がり。給仕たちは洗練された素っ気なさを有していて、つつけば毒を吐いてくれそうな、フレンチ気質をみな肩の雰囲気に、持ち合わせている。
 ここで飲むパナッシェは本場の巴里の味そのものである。それが、ひょいと、アサヒのロゴが入った細身のグラスに入れられて運ばれてくる、どうしようもなく美しい格がある。すでにみたされていた幸福の心持ちを溢れさせつつ、それを喉に流し込み、銀座の、街の中心が今足許につくられていく錯覚をもつ、他愛のない自由。

 インドや、ベトナムの料理ではなく、やはり異国情趣というか、食にまで響く密接で切実な味をもった料理とは、日本人にとって、ヨーロッパのそれなのだとおもう。フォーをいくら食べていてもしかたがないところがある。多くの文人たちが憧れ、「新体詩抄」にはじまり、原稿用紙の升目の上の挫折を経てきた、大いなるヨーロッパ。私たちは明治期の作家たちを笑うことはできないし、それは裏をかえせば、これほどの繁栄のもとでなお笑うことができない、ということでもある。
 オーバカナルという巴里で、私たちは巴里の夢をみるが、なによりも料理を、舌に載せて食べるのだ。そこで、ほんものの、肉を。その不思議。その幸福。どのようにあっても目覚めることのなかった怠惰な私たち民族の、ひとつの達成を食事として目に認め、味わい、澄んだ炭酸の酒でそれを飲み下す。