本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

芸と大食(一)

 私がインスタントのコーヒーを飲むことができなくなってしまったのは、カフェ・ド・ランブルの、あの琥珀色のコーヒーを飲んでからのことである。
 そのむかし、パニック障害を起こして、すぐと治してから、コーヒーはインスタントにしてカフェインの摂取量を自分ではっきり見て取れるようにしようと心がけて、それを続けてきた。だがもうあのコーヒー以降は、原稿書きの燃料としても、インスタントではすっかりと役不足となった。
 ランブルのコーヒーを飲んだ一瞬のあとに起こった変化というのは、そのような見て取りやすい、表面的なひとつの変化にはとどまらないし、とどまるわけもなかった。
 コーヒーを飲んでいる間に多幸感に包まれて、どうしようもない処に追い詰められて、口許に笑いがとまらなくなっていたものだったが、会計をすませて表へ出ると、うなだれたようになる、――自分は一体なにをしているのだろうか、と。ボードレールやバルザックをみてわかるように、コーヒーとは麻薬の一種なのだった。
   

 そうした経験はランブルについての書物をひもといたり、あるいはコーヒーについて調べたりしていても、とうぜん、回答のでるものではない、一瞬の街の、経験なのであって、私はそのようなものとしてしか食なるものをおよそ、みとめたくないとおもう。
 くれぐれもいっておくが、それは、美食家をきどりたいという料簡や、都会ずれしてみたいという態度とは、まったくべつのことである。単純にすごいものにうちのめされたいという欲求が(といってしまうと、SNS的な感性と感じ取られそうでイヤなのだが)、食べるということとつながっており、料理人の後ろ姿からしかはかれない、雄弁な街の奥行きというものが、確かにある。
 自負と緊張、そうまでいわずとも自分が街の一画を構成しているのだという、その料理人の健康的な精神のはたらきが、一膳の美にはままやどっている。それは一杯のコーヒーであってすらがそうであり、「ランブル」の琥珀色のコーヒー、新宿駅構内の「ベルク」の眠気を吹き払ってくれるブレンド、あるいは池袋の朝に入る「蔵」のアイスコーヒー、……すべての一瞬、一瞬が、思い返せば私には遠い夢のように、奇跡的なもの、一度的なものとして回顧される時がある。

 それでも、コーヒーがたしかにあるように街はたしかにあり、私の存在をおだやかに受け止めてくれる。料理をあじわうことの愉楽に、まだ、ゆられていられる。けしておおぎょうに言うのではなく、一膳の料理を食するとは、歴史の偶然性のなかでたまたまはち合う、アウラの祝福を浴びるということであるのだろう。そうでなければ、あの旨いものをあじわう時の旨い、という直接の感覚や、どれだけほかに美味しいとんかつを食べても幸福感を迫ってやまない「梅林」のカウンターの広がりに料理を待つ、あの心楽しい気分は、説明がつきそうもなさそうだ。