本とgekijou

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芸と大食(二)

 つまるところ食を語るとは都市論のかたちを採らざるをえないのだ。もちろん、私は私が食について語る時に、スノッブたりえないことを知っている。私は食について語る時に、みじめな敗残者となる。それは、都市生活者であれず、かつ地方に暮らす人間として意志的に「裏切り者」とならざるをえなかった私のことを、私は自覚をせずにはいられないためである。
 けだし、銀座という街は、田舎者にとことん優しいが、それが東京人の器量なのである。私たち田舎者というのは、彼らの粋を生み出すために、街に吐き出されていくに過ぎない。それはどれだけ健啖に、贅沢に、食について語ることができるようになっても、結句おなじことだ。
 そして、あたかも彼らに踊らされるがまま、というよりも踊らされるのをよしとした状態のうちに、あらゆる美を食べた私が、地方の悲惨な飲食の状況を前に、なにを語れというのだろうか。地方にはラーメンの一杯もなければ、カレーも、とんかつもない。悪い冗談ではなく、まともな料理は地方には出てこないのだ。猪や熊におびえながらつくったように、人を食った地方の飲食店の、なにを食べれば食べた、と言い得たのだったか……。

 SNSをみれば地域の振興のようなイデオロギーにかぶれて、下らない地元の飲食店にあれこれと入っては、写真をアップロードしているような女衒や淫乱が、ごろごろと転がっているだろう。だが、それはもとより、食とは関係のないことだ。それは単純なことで、彼らは美しくないためである。だが、美しさとはなにか、エレガントであることは何か、ということは、結局は洒脱な粋人の世界、東京人たちにおいて見出されるものなのであり、かくして、私は板挟みにあう。どだい、私たち田舎者がマトモに食を語るにさいしては、だれしもがかような屈託をもっているものなのだろう。
 どうあれ敗残者が敗残者としての自覚のうちに、その言葉をつくりだそうとするのであったのならば、それはなにほどかの統制の感覚とまではいかずとも、責任感に由来した言葉であったのに、相違もなかったはずである。あるいは、私がそうだというわけではけしてないが――明るく快活であるのよりも、澱んだ状態が好きな人間というのも、結構な数いるものなのだ。