本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

芸と大食(三)

 たとえば、一時期、恋人への手土産にすることからはじまって、ロブションのパンばかりをバカみたいに、食べていた時期がある。
 泡のようにはじけるクロワッサンの生地。かぎりなく滑らかに上品なクリームの舌どけ。カレーパンの中身の本格的なカリーのスパイスの複雑な味わい。
 いつもおなじロブションばかりでは芸がないからと、エディアールベーカリーのバターの匂いふんぷんたる美しいクロワッサンも食べた。
 恵比寿のアトレのなかにあるル・グルニエ・ア・パンの風格、ブルディガラトーキョーのクロワッサン。日比谷のル・プチメックは糸を切ったみたいに空いている時間帯が時々あって、私好みのローストビーフのサンドイッチを出す店が近所でつぶれてしまって以来、映画を観ている隙間の時間に、時々、窓辺の席で食べる。
 そうしているうちに、いずれ、地元でパンを食べる機会が訪れたが、驚いた。味がしないのだ。私には味がしない。パンの味を、まったく感じ取ることができなくなっていたのである。 
 職人さんが、一体どのような考えでこんな風に生地をつくっているというのか、眉をひそめさせられるばかりで、ただひたすらに不味くなる。鳩の餌にしようにも、田舎には路辺に鳩すらいなくてこまったことがある。
 ほんとうのものを食べるということは、私にとっては不幸にも、そういう状況をまねくということにほかならなかった。それは、街への呪詛を呼び覚ます。そして、食べものの話をする人びととの、どうしようもないへだたりを作り出す。
 ロブションのパンが、臍のごまのような地方市街地に転がっているわけもなく、せいぜいが、立ち食いそばでも食べているほかもなくなるのだ。私は地元では、チェーン店の飲食にしか行くことがない。単純にそこがもっとも美味しいからである。でははたして、美とはなにか――。あまりにも、田舎の人びとがそれに鈍感であり、ただ足許に転がっているどうでもいいもので満足をしているその容態が、私のことを、諦めに追いやる。もとをたどればその私は、ただ美をもとめていただけであり、だれのことをも小馬鹿にしたいわけではなかったのだというのに。

 ほんものを追いかけるということは、どの分野においてもそういうことだ。
 それは文学でも、いっこうに変わらない。人びとの多くは粗悪な書物にこそ重きをおき、ほんものの世界の前に、奇妙な警戒心を抱いたり、時としてやっかみまじりの悪態をつくなりして、自衛の策をとる。かくして、田舎における生活のうちに感性を腐らせてしまう人のなんと多いことか。もちろん、その田舎というのが香川県であって、香川のうどんに日々を満足をさせているのだったのならば、それに越したことはなかろうが、それもちがっただろう――私が言っているのは、まだ見ぬ世界に対する好奇心のことだ。
 歳をとるにつれ人びとはその好奇心を失う。それは堕落のはじまりなのであるが、いっぽうで多くのパンを食べ、多くの店屋の固有名詞にみずからの日常をみたすという戦略も、世俗の心情にもたれかかった営みへと、時として、なりさがる。それも堕落といえば堕落のひとつの形態ではあったのかもしれない。
 私が言いたいのは簡単なことだ。食べるということは、好きに、食べればいいということだ。しかしその自由は、多くの自由を得たはてで、みずからの感性をめぐる問いかけへと連綴をせざるをえない性質の営みとしてある。ゲーテはひとりの人間ができるためにはいくたりの人間が必要だろうか、と詠嘆したが、ひとりの人間ができるためには一体いくつの食が必要とされていたのだったか。