本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「小説を書いている人っていうのは、怖くない」「今書いているものが、かつてなく出来がいい」

 手前も散文を書いておいてなんだけれども、小説を書いている人っていうのは、怖くないから、困る。
 読書いっぱいしている人も原則的に怖くない、のは物書きなのだからあたりまえなのかもしんない。
 基本的に、駄目な人たちだと感じていてしまうのね。
 自分で自分の領域を狭めてるだけなんじゃねーの、と。夢とかなんとかいうけどさ、本当にそれがどういうことか、おまえ、わかってんの、というか。
 生っちょろい世界なんだよな、文学のシーンって。町田康とか見てご覧。人間ってああいう風に堕落をしていくんだ、ってしかとわかるから。パンクでそれなりの業績を残しておいて、芥川賞なんて獲ってしまったばっかりに、各地の文学館をめぐって「文学と私」みたいな講演会をさせられて、無惨な生き恥(いい意味じゃなくってね)をさらす羽目になっちまう。人相まですっかり変わっちまった……みていて悲しいよ。つまり、芸人ではなくて、文化人になってしまうんだね。今の、日本で小説を書く、書いてデビューをして順調なルートを進む、っていうことは、そういうことなんだ。表現とか、なんとかいうもんじゃなくってさ、既得権益と、文芸誌がもっているちゃちい権威と、システムのなかで、もてあそばれることになる。それはおっかない、っていうよりは、なにやってんだこいつら、そんなしょぼい、しょっぱい世界で、と、はたからみていてなるのが普通のはずなんだ。
 その普通も「本屋大賞」みたいなのが世にのさばるせいで、通用しないものとしてあるのかね、あれに騙されるやつが大多数だし……こういうことを言って、自分で自分を生きづらくさせているのはわかっているが、生きづらい、というのもなまっちょろいな。真面目に文を、追いかけてきただけなんだ。
 あのな、一応言っとくが、ああいうやつら、彼らが「言葉の力」「文学の力」とか訴えれば訴えるほど、この構図は深まってくの。皆が皆、井上ひさしとか池澤夏樹をやっているしかなくなってくんだ、てかもうとっくの昔に、そうなってるって話か。
 音楽やってる子とかはクルクルパーもそりゃ大勢いるけれども、そういう文学、なんていう根本的にオカシイもんとはちがって、はっきりと、わかりやすいから、風通しはいい。それはちゃんとはっぴいえんどとかビートルズはもちろんヴェルベット・アンダーグラウンドとかも聴いてきたな、というやつと、なんか村八分とか甲本なんとかを聴いてきただけのひととでは、面構えがちがうし、そういう素養がなくってもいいんだよ。

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 たかが知れているのだけれどもね、けれども、「初音ミク」に病んだ曲歌わせているトラックを、ばっきばきに聴いて、ふだんはRPGツクールのゲームやっています、という若い子が、あたしゃ、心底こわかったりする。なんか怖いの意味がちがうか。少なくともリスペクトするようには、している。
 それは私はそうは自覚はしていないのだけれども、なんか負い目なんかねぇ……。
 私はひとことでまとめると、スタンダリアンなんだよ。ああいうカノン、本当のほんものの小説が好きなのね。ドストエフスキーまでいってもそうなんだが、そうすると絵画とかでもレンブラントみたいな、光と影の芸術が好きで、印象派とかアヴァンギャルドは軽くあしらえてしまう。
 実際、田舎にいると、いくらでもあしらえてしまうんだ、これが。福島に昔翻訳ミステリー読書会とかいうのがあって、これが共産党委員会かなんかに入ってんスか、みたいな左翼ともいえない、左翼のひとがやっていてね、そうするとこいつらの規定しているものがなにか、とかわかっていてしまうから、正味、つらい。そんなのに出会うまでもなくモダニズムやらのスカスカさっていうのは、よくわかっていた。まあ、楽しく「なんとか殺人事件」とかを読んで、それで本を読んだ、ということにしているのだから、いいのではないの。スマホでポケモンのアプリやっているのと、それでは、変わりはないけれど。

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 パリへと登る馬蹄のひびき、ややutilityな、教条的な匂いのするロンドンの猥雑、華やかな女性と自殺を描く日本、……そうしたものが小説なのであって、文藝雑誌に掲載されている小粒な散文に、私は小説をみいだせない。こんなのはもう、笑ってもらっていいのだけれども。
 文末、語尾の修正が多いな、とか、すべてのシーンが、文章が、しっかりと緊密にからみあって一つのストーリーを作り出してはいる。だが期待するのはやめよう。賞を基準にするのは間違いだ。下読みで振り落とされても平気でいることだ……とかブツブツやりながら、今、書いているものをひと段落終えて、リオタールの崇高分析を読むか、となり、読むための前提文献であるカントの判断力批判が頭んなかにのこっていないな、あれは物自体とはちがうのだっけ、とかおもいながら、本棚をまえにきゅうきゅうとするアホらしさというものがあって、なにが言いたいのかというと、今書いているものが、かつてなく出来がいい。
 食い違いってあるからね。
 これは予防線とかなんとかじゃなくって(私はもう四十いってしまっているわけで、予防もなにも、世間的には、わりと手遅れなのだ)、下積み生活のうちで酸いも甘いもかみわけてきた、そこから出てくる言葉なんだけれどもね、出版社はどこも、人材を必死になって捜している。
 これは本当だと思うんだ。せいぜいが、そこに、フェアであらなければならない(「文藝」の中学校の文芸部みたいな編集部はどうでもいいとしてさ)。
 これはほんとうに必死にやっているの。そういうことに、しなければならないし、そうでなければあらない。
 けれども投稿する側の人間としては、新人賞が才能の原石、のごときものをちゃんと探していて、掘り当てるんだ、――という幻想を信じるのにはあたらないんだよ。
 ただ自作の出来、不出来をみているしかない。そこにしか信念ってないよね。変な作家をデビューさせるな、とかそういうことじゃなくってね(いやね、ほんとうに、そんなのない)、書いて投稿を終えて中間発表が出る、遙かに手前、書いている時、推敲をしている時には、もう自作の前に、平伏をしているしかない。
 なんでこんなものができてしまったのだろうか、と驚いているしかない。
 それくらい自分で驚いているし、他人も驚くな、とはおもっているが、そこは、いいんだよ、いうなれば螺子がしまっているかどうかの最終確認なんだ。
 私が今書いているものは、私のマスターピースだが、それでどうだ、ということもない。賞は賞であり、こっちの努力とはことなる、なにかべつの原理で動いている、と考えていたほうが、いいんだよね。どうせそれでも落胆したりする感度はあるのだから。
 落胆……。そら、そうだよな。
 賞の選考経過みて、落胆しないのは、それはそれでバカなんだよ。それができないはできないで、どうしようもなく、駄目なんだよ。
 嫉妬みたいなのしているやつが第一に論外ね。嫉妬っていうみっともないいいわけ。落とされたという現実の前では、いいわけはしようがなくなるのが普通なんだ。
 もっと酷いのがいて、賞なんて、どうでもいいじゃん、売れる売れないとかくだらないじゃん、とかいっているやつも、それはそれで、私らの遙か遠くにいる駄目なやつらなのだけれども。
 その感度がなかったらどうしようもない、ものなぁ……。
 つまり文学フリマ、とかあるけれども、それで「趣味」で小説を書いているひとというのが一定数いるらしくって、そことは、リアリティを分かち合えないよな、という話だな。だって趣味なのだから、こういうこと、考えなくてもいいわけだ。楽しんで、ネット上でコミュニティとかつくっていればいいわけで、それはそこで楽しくって面白ければそれでいいんだと、つくづく、おもうんだよね。大塚と笙野頼子の論争がどうのを取り沙汰すんのも、彼らを前には、ちがうのだろうし。ほんと、それなら、それでいいじゃん。
 それ以上の理解のしかたはしないけど。しないから、必要以上の軽蔑もしない。
 こっちが持っているものって、それとはまったく性質のことなる、生き死ににかかわるものなんだよ。バカバカしいことに。
 だから、そういうことだよ。フリマが気になるのではなくってだな。いまどき小説なんていうのに、生き死に、を持ち出すのは、本当に不自由なことなんだ。
 なんでこんなにクビをかしげながら散文を書いているのかと、不可思議になるんだよね。
 で、小説を書いている人っていうのは、怖くない、という結論になる。どうやったってそうなる。
 っケ。わかり過ぎていて、つまんないもんだよ。