本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「絶えて人の眼を疲らすことなく」――ボードレール「巴里の憂鬱」

 まずだいいちに、しょっぱい世界なんだ、文学ってのは。半世紀ちかくも前だと山田詠美とか村上龍のデビュー作を一万も初版で刷っていたのが、今は規模が十分の一とかになっている。だいたい千部も刷ってくれたらたいそうなもので、そもそも新人賞とって単行本化されなくっても文句がいえない、それが文学だよな。文学っていう言葉がもたない、なんかもとからバカバカしいのには、それはちがいもなかったのだけれども。無警戒に文学、なんていう言葉つかってらんないよ。

 だいたいが、才能の墓場だっていうことが、ピアノ弾きとかの世界みたいに明示されていなければ周知もされていない不親切さ、残酷さというものも持ち合わせているのが文字の世界で、どうしようもない、和音についてもしらないバカな作家がSNSでなんか言って、それに反応しちゃうバカなフォロワーどころか、本を買ってしまう人のいいのまでついてきちゃう、そして、それでもっちゃうのが小説家なわけ。平野啓一郎みたいなのとか、才能がない、見た目も最悪、学歴も女向けだと京都商業大学とか下に偽っちゃって、そういう世故には長けているからか、知らんが、なんでかもっちゃうわけだ。町田康とか、なんとなーく、パンクだっていうイメージが持続して、それでもっちゃうんだよね。ほんとうに、とっても、かわいそう。

 実際はちがう、そう、可哀想なんだよ。不幸な人間が輩出されていくだけ。作家になんかなっちゃってご苦労さん、アンタの書いたものは書いた順からジャンク品ですらもない、というその地点で、おおかたの作家たちというのは、書いているんだ。まあメシ屋なんてどうしようもないまずいメシ屋が多いからね、それとおんなじ、というよりもっとひどいというかあくどい。才能がある作家というほんのひと握りは、食えもしないし、才能があるがゆえにまわりを不幸にする、で、まあこれは不幸になると万事きまっているんだ。ほんとなんていうかピアノとかヴァイオリンみたいにね、だれが聴いてもわかるもんだっていうその前提がねーから、無情で、のどじまんみてえなひでえカラオケにかぎって、世人はありがたがるからね。どんだけ見栄はっていてもこっちからは筒抜けなんで、よろしく、ご苦労さん。

 人の世の闘いに疲れた魂にとっては、港こそ、こよなき休息所である。空の広大無辺、流れゆく雲の建築、移ろいやまぬ海の色、揺めく燈台、それらは、絶えて人の眼を疲らすことなく、ひたすらにそれを慰める不思議なプリズムである。
   ボードレール「巴里の憂鬱」三好達治訳

 バルザック的なことを言うつもりはないのだけれども、今、ビジネスチャンスだと自分のことを認識している。才能っていうか、自分の文章が心のここにあったんだ、というのを感じながら書いていて、それじたいは幸せなことなんだけれども、そうするとね、自分には才能なんてつくづくなかったんだなときづく。ないんじゃないかと不安におびえる。けれどもどうしたって、書いていくほかもないんだ。しかたがない。巡りあわせっていうものがまた、べつにあって、しかたがないんだとおもっているよ。どうあれ無情にできているもんなんだ、人生っていうやつは。