本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「ほんの少しましな思想」――末永直海「百円シンガー極楽天使」、吉本ばなな「キッチン」

 あのねちっこい歌声が館内にこだましている。いちど耳に飛び込むと、うっかり踏んづけられた靴の裏のガムみたいにしつこくへばりつく、あの安い旋律。
 今日の巡業先は、埼玉県東大宮のヘルスセンター。熱唱の二人組は、私と同じプロダクションのシンガー、「健次郎&デイビッド」だ。「デュオは国境を越えた」というキャッチフレーズで昨年デビューした二十四歳の青年たちだが、日米デュオというフレコミは大嘘。アメリカ生まれのデイビッドは、じつは髪の毛を金色に脱色した不法滞在中のフィリピーノ。健次郎のほうは一応、正真正銘の日本人だが、「ハーバード大卒」という肩書きには笑った。彼が鶯谷のポン引き時代から、私はよく知っていたからだ。
   末永直海「百円シンガー極楽天使」

百円シンガー極楽天使

 この書き言葉が今、このようによぎっていったその一瞬には、この文章は美しいのである。そう。まさしく夜行電車の窓外に遠くちらつき、光る繁華街の光の粒立ちのように、それはたしかに、美しい。「埼玉県東大宮のヘルスセンター」、「不法滞在中のフィリピーノ」、「鶯谷のポン引き」、ここでは固有名詞が、「安い旋律」がこだまするばかりの退屈な日常を、なにほどか埋め合わをする、慰謝となっている。「安い旋律」の流れ続けるなかで、なんとか、みずからのいる場所を、場所たらしめなければならない、なんとか笑い飛ばさねばならない、なにほどかの語感によって、意味づけをしておかなければならない、そうでもしなければあとは空虚さが広がるばかりのようである、と……。しかし私たちは、この文章のような人物をいかに見慣れてきたことか。鶯谷に行かずとも、上野の美術館にゆく前に何人もこの文章のような人びとを数えあげ、安宿のロビーに行けば、こうした人びとが発泡酒を飲んでいるのである。

 私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
 どこのでも、どんなのでも、それが台所であれば食事を作る場所であれば私はつらくない。できれば機能的でよく使い込んであるといいと思う。乾いた清潔なふきんが何枚もあって白いタイルがぴかぴか輝く。
 ものすごく汚い台所だって、たまらなく好きだ。
 床に野菜くずが散らかっていて、スリッパの裏が真っ黒になるくらい汚いそこは、異様に広いといい。ひと冬軽く越せるような食料が並ぶ巨大な冷蔵庫がそびえ立ち、その銀の扉に私はもたれかかる。油が飛び散ったガス台や、さびのついた包丁からふと目を上げると、窓の外には淋しく星が光る。
 私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少しましな思想だと思う。
 本当に疲れ果てた時、私はよくうっとりと思う。いつか死ぬ時がきたら、台所で息絶えたい。ひとり寒いところでも、誰かがいてあたたかいところでも、私はおびえずにちゃんと見つめたい。台所なら、いいなと思う。
   吉本ばなな「キッチン」

 キッチンという生活環境のなかで改めて書き起こした時、奇妙な清潔感と静けさをたたえた空間を、心象風景として描き、そのまま「キッチン」と標題をつけた作は、どうあれ「まじめ」に書かれた、率直な作品であった。
 もちろん、なにが「淋しく星が光る」だ、「いいなと思う」だ、と今となっては(「哀しい予感」などのアプローチで書かれた小説以降、書き手の小説はことごとく破綻してゆくことになる。現在の書き手の不調は、その率直さを失ったという以上の低迷がゆえであったのだろうが)顔をしかめざるをえないが、しかしその危ういレトリックの率直さは、文章の成り立ちの率直さでもあるため、ここでは強く批難するにはあたらない。というよりも、そのいたいけさをいたいけさと捉えること、他愛なくもそこに転がる、実在をする「淋し」さが、ここにはたしかに表現をされているのだ。まさしく、枕草子までの伝統に立って、というよりは――正統な退行のかたちをたどって。
 そして、今となってはさすがにカマトトに過ぎるかもしれなかったが、この文章のような人間も、女も、私たちは見慣れているはずなのだ。長嘆息をきんじえないほどには、まったく、じつに、見慣れている――。それは表面的には正反対のようでありながらも、心根の部分において、共通したものを隠さない双方であったのだったから、当然のことであったのかもしれない。この二人は同一人物ではないにせよ、たしかに似ている。

 歌が始まる。もう逃げも隠れもできない。ノイズ混じりのささくれ立ったテープ演奏は、まるで私の人生そのもの。にせ演歌歌手・夏月リンカは満面に笑みを浮かべ、両手を広げて皆さまの前へお目見えとなった。しくじりは許されない。我々には知名度も人気もなんにもない。あるのは自己顕示欲と借金だけだ。
 穴だらけの沈没寸前フェリーにつかまりながら、こんな船に生活と命をかけている。海が時化ても、この船から離れようとはしない。私たちは、今更まっとうには生きられない。生きてはいけない。だからいつも、死にもの狂いでぶらぶらしている。
   末永直海「百円シンガー極楽天使」

 二段落めから、トンデモナイ、だれも書かない禁じ手ばかりを犯しているような文章である。命をかけている、海が時化ても、まっとうには生きられない、……。だれもそれを書こうとしても、そのまま、こうして地の文章には書き起こそうとはしない文章だ。そのまっすぐな厚顔さはたしかに美しいのではあっただろうが、技巧的ではなく、長くはもちはしない性質のものだ。そう。車窓を、遠くよぎっていく街の光、せいぜいがゆきずりの女ていどの、性質のものなのだ。