本とgekijou

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「抒情的な自由詩系統の作風は流行遅れになりかかって」――伊藤整「若い詩人の肖像」、田中冬二「子の山行の思い出」

 親しく読んできたというのにはほど遠いのだったが、田中冬二は地元の詩人であったから、地元の文学館の展示などにふれて、その作品に接する機会をもってきた。そのようにかすかなかたちでふれ、親しく読んできたわけではなかったぶん、印象はいまでも記憶のなかに鮮烈なひとつとなってとどまっており、読む機会をもたねばならないと、時折、迫られる。あのまどやかで、陶然とした読み心地はなんであったのか。モダニズムの影響を漂わせながら、木訥として優しげな、香るような穏やかな詩文の成り立ち。
 そのひとつの理由を、「四季」の伊藤整の追悼号に寄稿された田中冬二の、セルパンの会の山行の文章を読んで、知ったつもりになることができた。ただいっしょに歩いたりするというだけならば、宿敵である小林秀雄とも伊藤整は、同道をしていたりもするのだったが。ともかく、伊藤整と田中冬二。あまり、相性が良くもおもわれない二人であると、私が感得をするのは、「若い詩人の肖像」の作中に、モダニズム系統の詩人たちについて以下のように言及されてある箇所があるためだ。若書きの随筆中にはよくあるのだが、小説のなかで(しかも円熟期に入った彼の文章で)、このように辛辣になにかを語る伊藤整というのも、珍しい。

 大正の末年のこの一二年、若い詩人たちの詩の書き方は、目立って変って来ていた。草野心平の「冬眠●」は例外だとしても、平戸廉吉は蛾の動く気配を全部ローマ字で現わし、Passasssssushというような行が二三十行も続く作品を書いて「未来派」と称していた。しかし平戸はその頃死んで、それが最後の作品なのだから、多分それが本気なので、ハッタリではあるまい。萩原恭次郎や岡本潤などはアナーキストらしく、歌うというよりは、詩で人を脅やかすような絶叫するような罵るような効果を出そうとしていた。私のやって来た抒情的な自由詩系統の作風は流行遅れになりかかっていた。若し詩壇というものが、ハッタリや絶叫がものを言い、情実の横行する場所であれば、私のセンチメンタルな抒情詩は片隅に押しやられて、日の目も見られないだろう。
 私はその時の詩壇なるものが分るに従って、いよいよ絶望し、急速に自信を失った。私には、単純で透明な、自然と人間の混り合った詩を好む性質があった。
   伊藤整「若い詩人の肖像」

 たしかに、伊藤整の「雪明かりの路」「冬夜」は、いまだ藤村の香りが残存をしている。と同時に、強くおもうのは、伊藤整がいずれ評論家になるような書き手であった、ということであり、そして彼の評論家としての行き方が、巷にはびこるさまざまな偏りのなかからではなく、独特のバランス感覚のなかから書いた評論家であった、ということである。それこそ「若い詩人の肖像」のなかには、おなじ学校にまなんだ小林多喜二に対する、独特の突き放したような見方、警戒心が表現されているが、プロレタリアートのみならず、あらゆるイズムに対して、伊藤整は、警戒的であり、その警戒心と、若さとがあいまったなかで「新心理主義」が生まれたのだと取ることができる。未来派も、ダダイズムも、あるいは「アナーキズム」も、それに染まることをよしとしない営為として詩作はあるのであって、透明にそれらをかわし続けていくことに、書き手の知的営為が辿り着く信念があったように、私はおもう。
 それはともかくとして、同時代人の書くモダニズム詩に、伊藤整はかくのごとき態度をとって臨んでいたわけである。そして「若い詩人の肖像」でも主要な登場人物として現われる川崎昇とともに、郡山市の駅前の鉄道に、工場の煙に、驚きをもって動揺をしながら、モダニズムに全面的な降伏をしはしなかった田中冬二も山行をする。なにか、絵としては、しっくりと来るのだったかもしれない。

 その日は七月七日の七夕の日であった。
 池袋駅七時集合に遅れた伊藤さんは川崎昇さん等七八名と共に、後続組として伊豆岳は割愛し子の権現へ直行し、そこで伊豆岳からやって来る一行を待ち受けることにした。あとできいた話だが、子の権現へ着いた伊藤さん達は、その待ち時間を入浴したりビールを飲んだり、うとうとと昼寝をしたりしてのんびりして居られたとのことであった。予定通りのコースを辿った私達の一行が、途中何とか言う峠を越えて子の権現へ達したのは二時頃であった。
 子の権現では恒例の御高盛とか杉盛とか言って、高杯に山盛にした飯と精進料理が供せられた。その高杯に盛られた飯の量と言ったら、見ただけで辟易してしまうようなものだ。
 殆どの人が半分食べあとはのこしてしまったのである。ところが伊藤さんは敢然とそれを見事平らげられたのである。その事を前記の一橋新聞に、自分は意地で食べたと書いて居られる。この子の山行に私は往きは伊藤さんとは別であったが、帰りは新宿までいっしょであった。八時頃新宿駅へ着くと、近くのビーヤホールで伊藤さん春山さん川崎さん等六七人でビールを飲んで別れた。
 あれからもう三十五年の歳月が経っている。
 セルパンもない。みんな昔のことになってしまった。それにしてもあの子の山行後の三十有余年の間に、伊藤さんは詩に小説に評論に翻訳にすばらしい業績をのこされたのである。
   田中冬二「子の山行の思い出」

青い夜道の詩人