本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「飲食店というものは、なにを売ってもよいのだ」――茂出木心護「洋食や」

 私のラーメンの食べ歩きもなにか得体のしれぬカルマとなっていっていて、都内だけで二百店から三百店へとゆるやかにではあるが、食べついでいる。もともとは文章のために、銀座でミシュランをとったりしていたラーメン店をひたすら食べてみよう、ということに端を発しているのだったが、そのころに食べた篝も、むぎとオリーブも、麺処伊藤も、いまだに生きている(酒粕ラーメンを提供する銀座の「風見」が閉店した時に、私は、泣いた)、ラーメン店というのは庶民の生活に密着したものでありながらも、しかし、文化たりえないところがある。蕎麦は福田恒存を引用するまでもなく立派な文化であり、カレーも神保町の欧風カレーにせよキッチン南海にせよ、あるいは新宿のガンジーにせよ、どうであれ立派な文化である。文化というのはここではひとまずは、つまり、街を形成させ、その街にくらしあそぶ人びとの生活の骨格、街あるきのスタイルを、形成させる、一言で済ませてひとを涵養するなにがしかの力の作用のことだ。とんかつも無論。寿司についてはあまり大口をたたけないが、あれは面倒なもので、へたに寿司をかじるくらいならば、むかし立川談志が言っていたふうに「寿司なんざ、回転寿司でいいンです」とやっていたほうが、余程、イキになるところがあるから、むつかしい(私も財布の関係から、回転寿司と開き直ることにしている。回転寿司でいいンです、に、これだ、とおもった口である)。

 ラーメンは、一応、大勝軒がどうとか、青葉がどう、麺処ほん田というのがあって、といった歴史はあるのだけれども、ね。やはり空間感とかに重きが置かれていない、器がどうとかいったものが不随してこないから、いかに競争が激化をしても、文化の香りがそこからあまり、漂うことはないのだとおもう(どうであれ、文化なんて文化包丁みてーなもんだ、ということにして、ラーメンを私は食べ続けるのであったが)。まあ、面倒なことはなし、ということだ。
「たいめいけん」がラーメンを提供している、そもそもしていて、今も続いている、ということを、創業者の「洋食や」で読んで、知る。

 なん年も前からやりたくってしようのないラーメンやを、調理場の一部を改造してスタンドを作りはじめました。女房は賛成でなく、洋食やが「そば」を売るなんてみっともない、と言います。私は「飲食店というものは、なにを売ってもよいのだ。それが美味しく安ければ」とやりあいます。
 ほんとうのことをいいますと、私はラーメンが好きで三日食べなきゃ変になるほどです。それで、どこかに美味しいところがないかと探すくらいなら、自分ではじめようとやった仕事でした。
 カウンターを開店して一年、お客様も日増しにふえ、洋風のラーメンはおもしろい、たいめいけんのラーメンなら美味しいだろう、と評判も立ち、「今日も私が一番だろう。この時間になると、くせがついて、足が自然に向いてくる」とくちあけに必ずこられるお客様もあります。豚と鶏がらでだしをとり、じゃがいもを入れるところがみそで、一日分売ってしまったら閉店にします。
茂出木心護「洋食や」

 著者の書き言葉はこれぞ東京のひとという、飾らない、素敵な文章であるが、今の「たいめいけん」の凋落を知っている身としては(失礼)、どうも、食指が動かない。たいめいけんでラーメン。「やりあう」ことをする、その料理人としての言い分はしごく真っ当であり、納得もできるのだけれども、なにか、壮大な語義矛盾をふくんでいるように私が感じてしまうのは、私がラーメンを欲しながら、ラーメンになにものをもみていないからなのかもしれない。