本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「ふふふと笑う」――山田詠美「放課後の音符」

 SNS患者やるのって気持ちいいんだよね。私もイヤイヤその流れに乗ってきた、相応に乗ってこられていたから、わかる。あれはノッている感覚、生活を一定のリズムに差配をされる、アディクションの気持ち良さなわけだ。本当はアル中病棟にいかなきゃなんないのに、パチンコ屋とか麻雀屋とかせこい居酒屋で、アル中を続けている、そのたのしさ。安い快楽だといえば、そら、そうだよ。まわりから一蹴されているということを意識できないから、だから、アディクションなのであって、なにを言っても無駄、私にはコロナはただの風邪だと言い張る陰謀論者も、それに必死こいて反論をするひとらも、いっしょに感じられてしまう。もちろん、輿論がどうと、がんばって、しゅくしゅくと正論を述べ立てている専門家はおられるだろうが、すくなくとも、それに乗っかって返信欄をにぎやかしたり、おおっぴらにネット上で同意をしたりしている奴等は、全部中毒患者だよ。
 安倍政権を必死こいて、知識人だとか法曹関係者だとか中国の工作員だとかにまんまと乗っかって、叩いていた奴等にしたって、本当にひどかったものだが、昔、第三の新人っていうのが作家たちでいてさ、戦後の問題とか大変なのに、戦争について書いても、内部抗争とか、学生運動とか、そういうどうでもいい問題ばっかりを書くんだよ。なんだよありゃあ。宗教の問題とかね。だから、さ、そっちの側に就いているとラクなわけだ、現実をみなくたって済むんだよ。せいぜいがネットとか、選挙とかの、擬似的な現実に参与していれば、それが現実だ、ということになる、自己肯定感もみたされるわけだ。まあ彼ら(第三の新人たち)の場合には、知的なかまえがそうした彼らなりの戦線を用意させたわけだけれども、SNSジャンキーはどうしようもない、立派な、底にたまった澱だぜ。

 カナは十七歳だけど、もう男の人とベッドに入ることを日常にしている。彼女の話を聞いていると、色々な男の人が登場して来て、それだけでも驚きなのに、その人たちが彼女と普通にベッドに入るので、もっとびっくりしてしまう。そんな私を、カナは、ふふふと笑うのだ。そして、言う。あら、寝るだけよ。寝るだけといったって、眠るわけではないのだから、私は、その様子を想像して、ますます困ってしまうのだ。私はまだ、男の人と、ただ、寝たことがない。
   山田詠美「放課後の音符(キイノート)」

 ほんとうは、西村賢太あたりをぶっこめば話は通り易いのだ。
 もちろん舞城王太郎とか海猫沢めろんとかはいるとしても、インターネットの空間なんていうものと対照にあるのが、小説だったはずなんだけれどもね。だってネットの横並びで、半角カタカナとかが攻撃的につかわれたりする書き言葉っていうのは、言文一致体いらいの日本語の革命ともいえてだ、もうそれによって失われたゆったりとした書き言葉っていうのが、私たちの日常生活から、やがては日本文学からも、すっかり毀損されて、失われていくんじゃないかと、危ぶまれる、というかいまさら危ぶむのもおかしいくらいに飽和状態なわけだ、それは。

 そのいっぽうで主体はうんと幼くなっていく。文系、理系とか、表面的な議論はそれらしくやるのが好きだからね、SNSとか。幼いといっても、性体験だけは信じられないくらいに、早く、小学生とかには終わらせていたりするから、そこも面倒なところだ。セックスも知って、あとは知らない知識はネットで知ったということにして、スカしていられるっていうわけ。ほんとうに豊かな情報っていうのは街場のなかにあるんだと私はおもっているし、セックスなんていうものひとつで人間と人間の関係性なんて、語り尽くせたものではないのだけれども、じゃああらためてそれはなんだ、語り尽くせないものってなんですか、って、言われても困るわなぁ。そうすると向こうさんは、ほらみたことか、人文学なんて曖昧なんだ、とか、やって来るわけだ。勝手にやってくれていていいわけだけれども。

 私は新人類世代に、てめえら総括しろ、と言ってけしかけるポジショニングをとっているんだけれども、でも正味の話が、山田詠美くらいまでは、純文学なんていって、頑張っていたんだとおもう。セックスを語りながら、セックスをすることの屈託とか、学校の授業なんていうものに比した人間の世界の奥深さ、非道徳的なことのいかに道徳か、っていうことを、彼女はくりかえし、ずっと書き続けてきた。それが今は多様性とかいうキレイゴトによって、かき崩されていっているけれどもね。多様性とかいうやつのひどいところは幾らでもあるけれども、あれはたとえば道徳、みたいな大きな価値観が成り立たなくなった、色々な人間を人間たらしめてきたシステムみたいなもんが本当に成り立たなくなったところで、出てきた解体の現象なんだよ。これまでは善かれ悪しかれ、金魚鉢のように全体をまとめていた大きな容器が崩れてしまって、その現象じたいを綺麗な言葉で固めているにすぎない。そして地べたの金魚たちが、てんで、大きな金魚たちについての印象批判をしている。それがネットだな。
 彼らには恥じらいというものがない。恥じらいという言葉は誠実さとか正しさという言葉と、裏表だとおもうんだよね。それが今、なくなってきている。含羞、なんていう言葉も昔はあったけれども、もう今つかうのには、厳しいよなァ……。ま、慨嘆していんのも、良くはない。ネットのぶつぎりの時間ならざる時間なんていうのはよしにして、小説の時間に身をゆだねて、ひとまずは、普通のひとである努力をしていこう、ということか。くだけてしまった金魚鉢のことはひとまず置いておいてね。