本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「言葉のやりとりがまるでない」――長沢光雄「風俗の人たち」

 すっかりと映画ぐせがついてしまって、武蔵野館のついでに新宿TOHOシネマズと蜜月になるうちに(おもに日比谷にかよっているのだけれども、TOHOシネマズは新宿のも超大型劇場で、夜おそくまでやっているから、いいものである。隣だかのIMAXでぐらぐらと席が揺れたりするんだけれども。友人と締めのサウナに行ってから、よしじゃあ締めの映画だ、とかやっているうちに、ゴジラとも親しくなってしまった)、私はついに発見をしたのだ。夜おそくまでやっていて、なおかつ、チェーンみたいないい加減ものではない、かつゴールデン街まで足を運ばずとも済む、個人店でがんばっているつけ麺屋さん。隠したってしかたがないから、言うと、にしきというお店で、鴨出汁に昆布水のつけ麺が美味しく、化学調味料をつかいながらもちゃんと鴨のスープをつくっているから好感がもてる。深夜もやっていてこの品質の麺が食えるのはすばらしい。

わが町・新宿

わが町・新宿

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 それはいいのだけれども、ほんとうに文句はつけようがないのだけれども、そこがまた、それはもう、歌舞伎町の面倒臭いストリートにあるのだった。私はもう歌舞伎町は怖くはないと感じるように、身体の組成が慣らされてしまっているのだけれども、あの路地の負のオーラは慣れることがないことの美がある、って、なんだかわからない。
 というのは大久保公園じゃないっていうのに、いつも、立ちんぼうさんがいらっしゃるんですよね。独特のスリルがある。それもそこそこのハイブランドの服を着た、街娼さんで、食券を買ってラーメン食べるためには、まずはその視線に、耐えなければならない、そこを通過しなければ背脂マシマシで、とかやっている場合じゃあない。それで私は、街娼さんの視線と、ひそひそ声って、ほんとうに素晴らしい、鏡だとおもうわけです。スタンダールは小説とは街をうつす手鏡のようなものだ、といったけれども、そう、パノラマで俯瞰なんかできるわけではないのね、鏡といってもそれはクリアーなものでも明晰なものでもなく、どちらかっていうと、相互作用的で、矮小なものにすぎない。それが、街娼さんを前にすると、男っていうのはね、よっくとわかる。表面的な、ものなのだけれどもね。自分の服装だとか、年齢だとか、セックスする場においてなにを要求してきそうだ、とか。むこうはスタンダールなんざ知りはしないわけだが、だからこその、明け透けな、実直な見え方がしている。それが、怖い。

 昔はいくら幼児になるといっても、せいぜい幼稚園児どまりだったの。だからまだ言葉でのコミュニケーションができたのね。『何をして欲しいの?』と聞けばちゃんと答えが返ってきたのよ。それが今は、〇歳から四歳までになるお客さんがほとんどなのよ。もうひたすら『アブアブ』だけ。言葉のやりとりがまるでない。
 それとね、昔は哺乳ビンを与えておけばよかったんだけど、今はみんなオッパイを吸いたがるわね。哺乳ビンは絶対にイヤだって。思うんだけど、今の二十代ぐらいの子で母乳だけで育てられた子って少ないじゃない。昔は電車の中でオッパイを出して赤ちゃんに吸わせてたお母さんは沢山いたけど、今は全然いないでしょ。だからオッパイの感触に憧れてるんじゃないかしら。
 甘え方も変わってきたわね。昔はオンブしてとか、だっこしてとかの要求が多かったけど、今は圧倒的に添い寝ね。ママの腕枕で寝たいとか、添い寝してただギュッと抱きしめてくれとかさ。そのまま本当に眠っちゃう人もいるわよ。これもやはり、今のお母さんたちが添い寝とかあまりしてあげないからだと思うわ。外に出る時も乳母車だし、自立心を育てるとかいって、早いうちからお母さんと別に寝かされたりするでしょ。だからスキンシップに飢えてるんだと思うわ。
   長沢光雄「風俗の人たち」

 六本木のSMクラブで幼児プレイをする嬢の言葉だが、保育士どころか児童心理士でもかくや、という教育的分析になっているのが、おもしろい。
 書いている長沢光雄は、あんまり、怖がる視線がないからイヤだ。女に怯える、というふつうの態度がなくって、ゴシップばりの興味本位で近づいているというか、まあここは好みの問題だけれども、私は単純にイヤな奴とはしばしに感じとってしまう。
 水商売とか風俗っていうのは、心が傷ついたひとが多い稼業だからね、そうすると自然と、人間がみえているという娘が多い。みえている、といっても、こういう幼児プレイのは例外として、それは屈曲をしたした見方なのだけれども、屈曲のしかたが独特で、それがこっちに、伝わって来るんだよ。それで怖いなぁ、しんどいなぁ、となる。人間、だれしも、相手のことを誤解をすることによって理解をしているわけだけれども、その誤解のしかたが、通り一遍のひとたちとはちがう、それも風俗なんていう、人を相手にするシノギのなかでもシビアな仕事んなかで、鍛え上げられた目っていうのが、あるから……。いや、変な意味とかではけっしてなくて、だから、私はああいう路地で、ひとに、そういう品定めされる目でみられると、ぞくぞくとしてしまう。鏡の光に照らされた気分になってしまう。たぶん、それって、まっとうな気分なのだけれども、自己帰属感が薄いからね、それをより強く感じてしまうのだろう。自分もまだまだだな、と、立ちんぼの視線をヒリヒリ感じながら、健全なことを思っていてしまう。
 まあとにかくそういう心がけで、私は日々、深夜までかかっている映画を観ては鴨汁昆布水つけ麺に、臨んでいるわけだね。