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「大衆食堂の流れを汲む一膳飯屋のこと」――今柊二「ファミリーレストラン」

 かんだ食堂がなくなってしまったことで、秋葉原という街の顔はまたひとつ、掘りが浅くなってしまった、皺がなくなってノッペリしてしまったよなあ、とおもうわけである。秋葉原自体にはあまり縁故がなく、とはいえ丸五のとんかつはずっとずっと味を落とさずにやっているし、麺処ほん田といううちの地元にもお弟子さんががんばってらっしゃる(麺処隆という屋号で、福島でラーメンといえるラーメンはここくらい、というがんばりようである)ラーメン界に革命を起こしたお店もある。なんならば食のついでに秋葉原らしいことをしてみるか、というほどには、食に、困るということはないんだな。震災から一、二年して秋葉原じゅうのメイド喫茶を全店めぐったりと、ちょっと取材をしていたことがあったのだけれども、そんな時にはなぜか、メシ屋がないなこの街、外国人むけの観光都市だよな、となったりしていたのだけれども、どうしてどうして、鼻をすこし効かせて、あと中央通りばかり歩いてさえいなければ、ちゃんとある。

秋葉原は今

秋葉原は今

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 で、かんだ食堂のような暖簾つきの、昔の言葉でいう簡易食堂、とここまでは知っていたのだけれども、その簡易食堂が「洋食」へと発展していき、上野のじゅらくに至ったのだということを、今柊二の本にて知った――なんくせをつけるわけではないのだけれども、この方の本は、へんに古本なり文学なりと結びつけずに解説的に書いてくれているもののほうが、読みでがありますな。

 須田町食堂を興した加藤清二郎は菓子屋の外交をしつつ、自分に適当した商売を探していた。そんなとき、縄暖簾の存在が気になった。縄暖簾とは大衆食堂の流れを汲む一膳飯屋のことだが、なかには設備が悪く、非衛生的なところもあったので、洋服などを着ている洒落た人間は入らなかった。そこで、縄暖簾を改良した衛生的な食堂として、関東大震災後の1924(大正13)年、神田須田町交差点の脇に、「ウマイ、ヤスイ、ハヤイ」をモットーとした最初の須田町食堂をオープンさせたのであった。
 ここの当初(ママ)メニューの中心は洋食であり洋食を安い値段で提供し普及させたそうだ。コロッケが3銭、牛皿、野菜サラダは5銭、カレーライス、カツレツ、合の子皿(コロッケ・イカフライ・サラダの盛り合わせ)が8銭だったそうで、露天でのカレーライスが10~20銭だからやはり安かった。
 この安さが評判となり、半年後に京橋に2号店をオープンさせ、以降、東京、横浜などにチェーン展開を行い、1934(昭和9)年に株式会社「聚洛」を設立した。聚洛は現在もホテルや飲食店を運営しているが、発端は須田町食堂なのであった。
   今柊二「ファミリーレストラン」

 えっ、じゃあ「洋庖丁」や池袋の「キッチンABC」系統の洋食はどうなんだろう、と即座に気になってしまうし、神保町「キッチン南海」の存亡についても気がかりとなってくるので、これはもっと掘り下げていかねばならない主題であるが、今はひとまずは私の目の前にある、デスクトップパソコンからインターネットに繋いでそれを詮索をする、などという野暮はやめておこう。「設備が悪く、非衛生的」な食堂というやつは今でもそこいら中にあるわけで、私がとくに通ってしまっているのは、有楽町の、有楽町駅のファサードに地続きにつながっているようなごたごたとした立地にたつ、宝龍というどうでもいい、本当にどうでもいいような町中華だったりするのだが(日比谷なりシネスイッチ銀座でいい映画を観たあとになんとなく入ってしまうのだ。これではいけないと、コーヒーがそこそこに旨い、ローストビーフが私好みのサンドイッチを出す店と蜜月になりかけたのだが、宝龍の化学調味料が呼んでいるかのごときタイミングで潰れちまった)、いっけん、デオドラントなチェーン店憎し、となりかねないのだが、……上野の「じゅらく」、いろいろと都合のいいような所に建っていて、一番無難で使い勝手がいいし、そこそこ、旨いんだ、これが。旨くてなにが悪い、という話であり、つまりこの話に結論は、ねえな。