本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「虚心に純真に」――藤島武二「画室の言葉」

 まじめに遊ぶ事、そのむずかしさたるや、遊びをしながらに常々とかんがえて来ても、精確な手応えとともにそれを知ったつもりになることが、どうしても簡単にはできない。まじめに文章を書くといっても、そのまじめさというのは、堅気の仕事のように見て取りやすい眺めではないのであって、ペンを放り投げて散歩にでていてなにかを着想するのはよくあることとして、開店まぎわのパチンコに行ってみることで思い浮かぶネタというのがあるのかもしれないのだったし、それを言い出したのならばもうきりがなく、しかしそうあるほかない、もうきりがない、であるほかもないのだから、しかたがない、それは結句、自明な落とし所などどこにもない、ということでもある。だからといって上野や浅草の界隈でずっと昼から酒を飲んでいるわけにはいくまいと、心には知っている。わかっているのは、各人が各様の、生活態度をもっているということであり、それをひとつのスタイルたらしめていく努力のうちに、小説を書くという営みに密につながりうる何かは、たしかにあるということぎりである。
 銀座の区区の画廊をみていると、いろいろな人がいるもので、知識に汚れていないようなひとにかぎって、すっとすばらしい絵画のコレクションを形成させていて、唖然とさせられたりする。一体このひとはどういうことになっているのだろう、と、天性の感覚を前にうたれては、天性のものはマネできない、しかし天性のひとを前に学ばなければそれは本当のまなびではない、とうろたえる羽目になったり、する。美術館の学芸員の講演や、美術の見方、などという安易な新書本のたぐいでなにかを知るのが、はたしてまじめな営みであったのか、たしかにまじめなのには間違いはないのであったが、はたしてまじめに遊ぶことの前に、それがどこまで有効な手札であったのか、それは怪しい。げんに、エルメスというとみんなバカにするけれども、メゾン・エルメスの展示はたまに大当たりを、放つしねぇ……。結局、つかえる手札をつかえるように動員して、いろいろと動いているほかもないのだけれども。

 芸術の道に志す以上、もちろん誰の場合にも自分の心持はあるわけであるが、いろいろなものに邪魔をされてそれが容易に発見できないということがある。同時に、日本人として先祖以来の国土に育ち、長い伝統の下に、誰もが皆どこかに日本人としてのエスプリを持っているに相違ないにも拘らず、自分でそれを認めないという場合もある。しかし美術市場の名作のどの一つを取って見ても、それが時代精神の反映でないものはない事実を考えて見れば、いま日本人としてのエスプリが、時局確認の上に立ち日本民族としての自覚の上にあらねばならぬことは余りにも自明である。懐疑と低徊からは何ものも生み出し得ない。問題は虚心に純真に、物を正視することに尽きる。私は今の若い作家に、切にこのことを言って置きたいのである。
 自分の周囲の暗雲を払って、本当の自分を発見するということは、仏教などでもそれを最も大切なことに見ている。仏教で「自性円満」と言っているが、如何に立派な教理を聴いても自己をはっきり認識できなければ何にもならないことを教えるのである。

画室の言葉

画室の言葉

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 と、宗教の話もでてきてしまったことだし、ここいらで説教はよしてもらおう。この文章には国土や伝統や日本人といったもの、インターテクスチュアリティを強調をするひとまずのナショナリズムの香りがしているが、どうあれ、このような文章が書かれなければならない、そのことに芸術、表現することのむずかしさはある。このような教説は、世にありふれたものかもしれないが、いっぽうで私はこの歳になって、ようやく、皆が皆なぜ、このようにしておなじようなことを言うのかがわかってきた、とおもう。そして、「虚心に純真に、物を正視すること」、これでは物書きには、わかりはしない、と。またあらゆる「エスプリ」がこんにちでは無効となっているのだ、と反発をすることも可能であっただろう。それにもかかわらず、私はこうした言い様に一定の敬意を払っていたいのだ。どうであれ教示をするという形式のなかでしか、創作論とは書かれえないような気も、する、それは愛のある試みであるという感覚も私はもつのである。道に、迷いがあり、自分の表現をつかむことのできないものに向けて、この文章は書かれてある。そしてそれは、その迷いが迷いですらなく諦められたり、ずっとみつめ続けていた「物」がありふれたものとなって、世界がくすみ、どうしようもなく諦めている時、ふっと肩の力の抜けた時にこそ、虚心さ純真さ、円満さが訪れてくるのだという、私なりの創作論を喚起さすのである。