本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「私のせいじゃない」――高見順「悪女礼賛」、岡田尊司「愛着障害」、川端康成「みづうみ」

 離人症者として現実感を喪失しているため、また虐待等の既往があるため(基本的信頼感の欠如というタームがある)、ひとに、恋愛の感情をどうも抱くことができていない。どうも私にはそれができないらしいのだ。昔はそれがあった筈なのが今こそそれが、手に届かないものとなっているのが、わからない。恋に高揚をすることもできなければ、惑いらしき惑いを持つこともできない。おなじく離人症者の杉本博司は「アートとは、技術のことである。眼には見ることのできない精神を物質化するための」(「アートの起源」)と書いている。たしかに、あらゆる表現が成されたかのような歴史のはてとしての現代において、表現することがあまねく過去の反復であったとしたのならば、その反復を反復として自覚をすること、技術として処理をすること、が表現者には求められるのであったが、ならば人が他者にもつ感情もまた「アート」なのではなかったか。有機的な感情までもが、テクネーの視座のもとに、置かれるとはいかなことであったか。

 女を愛さない男の背中を女は盗み見している。そうしてそういう女は男から愛されない。男から愛される女は、男からだまされたがっている女なのだ。愛されたがっているというより、はっきり、だまされたがっているという方がいいようだ。女を侮辱しているのではない。男だって、女にだまされたがっているのであり、女にだまされることが男の幸福というものなのだ。だます、だまされるという言葉が気に入らない人には、酔う酔わされるという言葉を持ってきてもいい。
高見順「悪女礼賛」

 現代の小説でも、随筆でも、みることのできない文章であるのは、男/女と殊更に対比をしているが故ではない――ジェンダーの問題などというのはひとまずは、机上の問題であって、私たちの身体なり認識なりに深く、密接に食い込んだものではないためだ。むしろ男が男であるということ、自らの男性性の自覚に根ざした、関係性への省察がここにはみられるのであったが、その甘やかな認識も甘やかな認識であることを保たれているうちは、まだいい、その認識が確固とした冷たい認識となり、認識が認識であるがゆえに女性から、関係性から、突き放され、俯瞰された時に起こる虚しさというものがある。

 回避型愛着スタイルの特性が、顕著に表れるのは、恋愛や家族との愛情が試される場面である。
 回避型の人の恋愛には、どろどろしたものを嫌う、淡泊なところがあり、相手との絆を何としても守ろうとする意志や力に乏しい。
 天涯孤独の身となった川端康成は、伯父の家に引き取られるとともに、祖父との暮らした家は売り払われ、やがて中学校の寄宿舎に入ることになる。そうした体験は、彼を何事にも執着の薄い、恬淡とした性格にした。
岡田尊司「愛着障害」

 熱い認知、冷たい認知という、サイコパスに関連したタームがあるのだが、ここでは詳述は省こう。
 問題は、いかに恋愛が恋愛といえないまで、遠く、遠ざかってしまっていても、それでも女性なるものへの、幻想は、たえることなく残る点だ。いびつなかたちであれ、それは残るのである。恋愛の感情を抱くことができない身体になろうとも――そのような人間というものがいる、のだと言う他ないのだが――恋愛といおうか、女性に欲情をすることは可能である。
 川端の有名なエピソードに、芸者を座敷に並べてひとりひとり、あの眼で見詰めて行った、というエピソードがある。石原慎太郎も同様の逸話を紹介しているが、電車のなか、車窓からじっと、ホームに立っているかする、器量のわるい女性を川端は、凝視し続ける。無機的となった女、人形として処理されるかのような女、のなかから、幻想を絞り出そうとする。この文章などではなく一人の女性をつきまとい続けるという作品全体の粗筋のほうが、事態をよく現していただろうが、

「恋人と言っても、まだ十五よ、満で……。夜桜の動物園でも、私、男につけられたわ。奥さんや子供づれなのに、家族をほっておいて、私をつけて来るんですもの。」
 有田老人はよほどおどろいたらしく、
「どうしてそういうことをするんだ。」
「するんだって……、私は水野さんと恋人がうらやましくて、かなしそうにしていただけなんですもの。私のせいじゃないわ。」
「いや、あんたのせいだ。楽しんでるじゃないか。」
川端康成「みづうみ」