本とgekijou

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二十一世紀と小説の終わり(断片、草稿)

 十九世紀に興隆をした「小説」は多くの天才たちを世界各地に同時発生的といえる規模で輩出してまもなく(ブロンテ、ディケンズ、バルザック、スタンダール、おくれてドストエフスキー、……)、同世紀のうちにボードレール、ホーフマンスタール、ヴァレリーなどによる爛熟期を、ついでその終わりを迎えた。二十世紀に入るとプルースト、ジョイスの巨頭が現れたが、前者は十九世紀的なエレガントの終わりを、後者は言語芸術としての小説の自己言及性を極度の緊張にさらし、つぎなる小説の展望を用意するというよりはむしろ近代の終わりを、小説の終わりを決定づける性質のテクストをものした。一九七〇年代になると新小説が登場をした。文芸理論が小説作品に先行をし、テクストから最後の自由を奪った。以降、これらの系譜の小説とされるテクストは哲学テクストの実践を小説とされるものの形式で曖昧に実践をしていく運命をたどり、その趨勢は半世紀が経過をした、およそ哲学者などというものが絶滅をしたかにみえる二十一世紀においても、まだ続いている。そのほかに縋るものを小説のようなものは、内容的な側面においてなくしているからである。二十一世紀においても小説とされるものは書き続けられている。それはかつてあった小説に対する、忘却のプロジェクトの続きである。

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 二十一世紀において小説を書く、小説が書かれた〈とされる〉状態とは、いったい如何なる内情をさして、そう呼ばれるのであっただろうか? 小説というものが、十九世紀に隆盛をしてただちに衰退をし、二十世紀において決定的に書かれえないもの、書かれることがないことを約束されたもの、その小説の「終わり」が遂行をされ、「終わり」の忘却すらもが忘却をされた状況下で、この〈とされる〉は一種の宗教的な様相を帯びざるをえない。現代において生産され続ける「小説とされるもの」は今なお「小説」の名前のもとで市場に売買をされ、評価をされ続けて、今後の文学史上に残されるべきか、ただちに駅のゴミ箱にでも放り棄てられるべきかが諮問にかけられる。十九世紀の作家たちの作品に比すれば、現代のすべての小説はゴミ箱送りされるべきだっただろう。そしてまたそれらの小説の読者たちは、それに良い印象を抱いていようがいまいが、それら現代の小説を読む時にみずからが今読んでいるものがまがりなりにも、「小説」と名指されるそれであると信じて疑うことがない。私はこれを異常な状況とみる。これらの顛倒そのものが、かつて書かれた「小説」それ自体の忘却の進行を裏づけて、今なお加速をさせているのにほかなるまい。
 まず間違いなくいえるのは、かつてアドルノのシェーンベルク批判にあったのとおよそ同質の意味で、あらゆる文学的営為は、それは個人的な制作であれ、公共財としての文学を守るための活動であれ、文化的野蛮に類した営為なのである。〈とされる〉が知的な営みとしてありうるとしたところが、それは、忘却の原理を前にはついぞ無力でしかありえない。現代の小説家もどきたちは、忘却の原理からひとまずはそっぽを向いて小説とされるものを書き継いでゆき、決定づけられた事実性としての小説の死とけして向き合うことをしないままに、現代の小説信仰を続けてゆかねばならないのである。それは知的なことであっただろうか? 誠実なことであっただろうか? 彼らが「言葉の力」のような類型的な文言を宣う時に、そこでは小説という死を前にした圧倒的な乖離と、無関心さ、厚顔さが発揮されているだけではなかったか? これは、文化事業に参加してゆくことや、アカデミズムの舞台で活躍をすることを目的とした「文士」(「作家の誕生」の用語に依る)のみならず、すべての知的な小説家もどきたちにも、該当をする問いかけである。
 取り敢えずの三つの視点をたてることができるだろう。ひとつは公的な次元、文学の文学性、アルシテクストの次元である。日本文学にも「新潮」や「文藝」がどう、芥川賞がどう、といった、文学とされるものをめぐる権威と制度とがたしかに存在をする。これらの事業を成立させ、存続をさせる営みとは〈とされる〉を〈とされる〉のまま、維持させていく営みと等価なのである。それは計画的なものではなく、むしろ企業や賞の運用といった、およそ芸術作品の表現活動とは無縁の鹿爪らしい実際的な側面に忠実に、現状を維持させていく。第二の側面は、私的な側面である。ひとは小説または小説とされるものを読み、小説家というものが世界にあり、世界のなかでみずからもまた小説家になりたいのだ、小説を書きたいのだ、という莫迦げた志向性を抱くことがある。その達成のためには〈とされる〉は〈とされる〉として、あたかもその当人の肉体のように、当人の精神生活からの積極的な働きかけをうけて維持存続をされてゆかねばならないのである。彼は、みずからの肉体がすでに死んでいるというあり得ない現実には気づくことができないように、「小説」が死んでいる、ということを容認をし、容認をしながら書き続けることなどはできない。そこでは、自己肯定をしながら書くということはできても、小説が書けない現実を直視することは、時に政治的なまでの周到さをもって、かたくなに避けられていく。第三の次元は、例外的な人物の登場である。「小説」としか名付けようのないものが、忽然として現われる。どのような歴史であっても小説とはそのようなものであったのかもしれない。歴史的な観点からみて、けして書かれるはずがなかった小説が書かれる、一個の天才がいるだけなのだ、小説とは土台そのようなものなのだ、という見方である。天才というのはひとつの難問である。ここでひとまずいえるのは、もちろん「本屋大賞」の店員や、出版社の編集者などといった人士にとっては、このようなかたちでは小説とは成り立ってはいなかっただろう、ということ程度だろうか。彼らにとっては森見登美彦でさえもが小説家であると、信じられているのだ。