本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「待て、黙れ!」――ウィリアム・ギャディス「JR」

 ボラーニョの「2666」、フエンテスの「テラ・ノストラ」、ヤーンの「岸辺なき流れ」、ボレスワフ・プルスの「人形」……おもに中小の出版社から出ている、書棚にみつけた途端に魅了をされてしまう大著というモノがある(このなかではボラーニョの「2666」以外は、読むに値する、どころか古典的名著も混じっているのが、厄介だ)。水声社、彩流社、国書刊行会、……いつからか中小の出版社のほうが、そうした尖った小説を相次いで出版してくれる版元になっていったのには、大手が衰退をしていったからという事情も絡んでいたのだろうけれども。
 二〇一八年に国書刊行会から刊行されたウィリアム・ギャディスの「JR」もその大著のうちの一冊であり、ギャディスの影響を受けたというピンチョンの「逆光」の邦訳、そしてまた「UFOとポストモダン」という文化表象としてのUFOの変遷を追いながらゼロ年代批評にまで届くような、標題からして冴えているユニークな批評文の著者でもある、木原善彦が、全訳を手がけている。
 これがまた一読して「破格」の小説なのであるが、ピンチョンなりジョン・バースなりを読むなりして、アメリカ文学に興味がある、そしてまた書棚のなかで異形を放つその分厚さに魅了をされてしたまった筋には、それでもなお読むことを、勧められる本なのだ。

 ――お金……?と、かさかさした声。
 ――紙の、ええ。
 ――あの頃はまだ見たことがなかったわ。紙のお金は。
 ――東部に来るまで、紙のお金は見たことがなかった。
 ――初めて見たときはとても妙な感じがしたわね。血の通わない感じ。
 ――値打ちがあるとは全然思えなかった。
 ――それまでは父さんがいつも小銭をジャラジャラいわせていたからね。
 ――あれは一ドル銀貨だったわね。
 ――それと五十セント銀貨、うん、それに二十五セントもよ、ジュリア。教え子から集めたお金。今でも父さんの声が聞こえるみたい……
 雲に覆われていた太陽の光が突然あふれ、外の木々の葉を通して粉々に砕かれ、床の上にこぼれた。
ウィリアム・ギャディス「JR」木原善彦訳

 書き出しの部分である。
 一行目、「 ――お金……?と、かさかさした声。」の終わりの部分には訳註を示す記号が付されてあり、巻末の訳註のページ(これだけで三十ページに及ぶ)の該当箇所にあたると、「【場面】ニューヨーク州南東部ロングアイランド南西岸にあるマサピーカ郊外のバスト家。」と、場面設定を教えてくれている。
 そうなのだ。この小説、大半が会話で構成されているのだが、いかんせんずっと会話が続き、そしてまた文章と文章との間の区切りもなく連綿とそれが続いていくため、その会話が一体全体、どこで交わされている会話であるのか、すこしでも気を緩めると、あるいは緩めずに読んでいても、わからなくなってしまう。というわけで場面が切り替わると訳註にて、訳者が【場面】と【 】つきで、教えてくれている、親切な邦訳となっている。
 それがゆえに、二段組みで九百ページの大著といえども「お勧め」できる、全体の伏線や、構造といったものをある程度は無視をして(一回では無理だと諦めて。というよりも大半の読者は諦めざるをえなくなるはずだ)、とにかくいちど通読をする、という分には、この凝った訳註の仕事のおかげで、むしろ「読みやすい」部類であるといっても過言にはならないまで、手が込んだ訳業となってくれているわけである。

 ――何、何だ……
 ――急いで、起きて、着いたよ、みんな降りちゃった、うわ、あいつめ、ねえ、待って、降りなきゃ! 急いで、荷物を持って……
 ――置いていけばいい、僕はそんなもの……
 ――置いてっちゃ駄目だよ、ねえ! 待って、荷物をまとめて……
 ――おい、肩を貸してくれ、気分が……
 ――ねえ、待って、降りるよ!

 会話、といっても、登場人物同士の会話はろくにかみ合いもせずに、なにか重要なことが進んでいる「らしい」と分かるところもあれば、ただただなにかがガサガサと鳴っているような、それ自体意味を成さない長広舌、物音のような会話文が多く、私はこれを読んでいる間、次第にこの分厚い本が巨大なオルゴールででもあるかのように感じさせられていたものだった。開くととにかく、絶え間なく会話が鳴りひしいでいて、うるさくってたまらない小説。そういう小説というものがあるのだ、ということをこの小説は教えてくれる。地の文であっても、大抵は車のドアーがずばん、と銃声のような音をたてて閉ざされていたり、とにかく、うるさい。
 いわば、ジョイスの「内的独白」は内心の声のみを、テクストのなかに取り込もうとした試みであったわけだが、このテクストにおいては、外界に現れる、表面的な事象、とくに声や音――それのみを、ひたすらにテクストへと抽出をしている感があるわけである。世界が音や声へと縮減をされ、なにかの密度がテクスト内で高められていっている。声は言葉とはならず、それゆえにいつまでもすれ違い、すれ違うがゆえに「会話」をしているとされる、声と声とは、意味をもたないただのノイズとノイズの応酬であるかのようであり、言葉を追えば追うほど、ノイジーさが聴覚に来る読書体験となる(すくなくとも私の場合はそうだった)。
 ――このような鹿爪らしい解説では、上手く伝わっていないであろうが、「JR」は全体にその作品の企図そのものが招来をするかのような、いやそれ以前の古典的な意味合いにおいても、ユーモアにみちた小説であり、ひとたびリズムをつかむことさえできれば、通読するのは困難ではない。冒頭の引用で一、二行のものを引いただけであるが、地の文の自然描写なども、いちいち、書かれるごとに文飾に凝っているのも、刮目すべき点であるだろう。たまに顔をのぞかせる風景描写などが、矢鱈と美しい。
 ストーリーの内容について、語ることはかなりの困難を伴う。なによりもこのエクリチュールを楽しむ小説なのだ、と開き直りたいくらいには、むずかしい。それは、なにせ時として膨大な訳註によってご教示願うほかなくなる、煩雑なまでの構造がこのテクストの随所に仕込まれているからなのだが、潔く一言で言ってしまうと「金」がテーマ、ということになり、このテーマの扱い方はもちろん現代にも通用する、書かれ方をしている。その粗筋もまた破天荒で、粗筋だけで爆笑ものなのであったが。

 ――手に入れる? 芸術を? 他のものと同じこと、買うんだよ、いいか、ギブズ、今のこの時代に偉大な芸術がそこら中に転がってることはおまえに言われなくても分かってる、絵でも音楽でも本でも、この世にある偉大な音楽を全部聴いたことのある人間なんているのか、おまえは? この世にある偉大な本は全部読んだか? 偉大な絵は全部見たか? 聴きたい交響曲のレコードならいくらでもある、複製が手に入る、ほとんど完璧な複製、今までに書かれた最も偉大な本がどこででも手に入る、かたやおまえのお友達は血を売ってる、あいつは頭がおかしいんだ、それだけの話、さっきモーツァルトの授業でこの地域の教養を高めてくれたやつと同じこと、新聞もそう、芸術家のことが新聞に載るのは連中が問題を起こしたときだけ、本人だけの問題であれ、人を巻き添えにする問題であれ、新聞に載るのは連中が問題を起こしたときだけだ。
 ――それは芸術家に限らない。
(中略)
 ――それはどういう意味だ、私は薬物常用者と付き合ったりしてないし、嘆願書の署名集めもしてないし、くだらない絵も描いてないし、髭を生やして汚い言葉だらけの本を書いてもいないぞ? あいつらは何の才能もないのに何かをやろうとしてるだけ、どうせ半分は頭のおかしな連中だ、さっきのやつが言ってた自分の頭が胴体から転げ落ちるんじゃないかと心配してたっていう男の話はどうだ? それに自分の耳を切り落とした有名な画家、あれはどうなんだ。
 ――いや、さっき言ったのはそのことだ、そういう人たちがいなかったら俺たちはどこで芸術を……
 ――待て、黙れ!
 ――ええ、はい、もちろん、私たちの学校では、あまり、うーん……
 ――ほら、うちの会社だ! 聞いた? あの子たち、うちの会社、ダイヤモンド・ケーブルの株を買うんだ、見た? あれはうちの会社だ……!