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「やわらかすぎるパンには閉口するけれど」――レジンスター「生の肯定 ニーチェによるニヒリズムの克服」と心的外傷後成長、そしてフランクル

 いかにも英語で書かれたそれ、と謗りを受けようが、というよりも受けるであろうがゆえに――近年邦訳されたバーナード・レジンスターのニーチェ解釈(「生の肯定 ニーチェによるニヒリズムの克服」)は、なぜこれまでにこのような、明快なニーチェ解釈が成されて来なかったのか、そう首をかしげられさせるほどに、簡明で、筋が通ったそれなのであった。ハイデガーが、クロソウスキーが語るニーチェには、ハイデガークロソウスキーの匂いがするのだが、あまりにも簡明過ぎるがゆえ、レジンスターのニーチェにはレジンスターの匂いはせず、すくなくとも純粋な論理の力がそれにまさっている。線の太い、力強い解釈といえる。
 さて、「生の肯定」で語られるニーチェの哲学のエッセンスは、心的外傷後成長(PTG)が扱う問題圏にそのまま対応をしている。
 心的外傷後成長とは、がん患者の語りから得られた知見をもとにした精神医学上のタームであり、トラウマとなるような悲痛な体験のあと、ひとは「あの体験があったからこそ、今の自分がいる」「自分はあの体験のおかげで成長することができた」といったふうに回顧をしては、言葉にすることがある。ある見方をすれば、ネガティブなイメージでしか語られることのない「トラウマ」に、一点の光を与えようとする専門家たちの試みから生まれたタームである。そう言うと、意地が悪いのだが……。だが実際問題として、心的外傷後成長という概念は、人間にとっての「成長」を専門的手続きによって矮小化させてしまっている弊に、自覚的であれない。
 近代に書かれた小説のなかには、オリバー・ツイストであれウィルヘルム・マイスターであれ、主人公の人間的成長をモチーフとしたものが多いが、「成長」という言葉にはそもそも文学的な含みが、多分に有されているのではなかったか。そしてそれは、日本におけるPTG研究の第一人者のこのような言葉を目にするまでもなく、およそだれしもがわかっていることのはずなのである。

 価値観が多様な現代の社会では、何をもって人間としての成長とみなすのかが曖昧になっています。人間としての理想の発達とはどういったものなのか、人間が進化を遂げるとはどういうことなのかに関して、この世の中で、万人の意見が一致することはありえません。
 そのため、何をもって発達、成長、成熟あるいは進化と呼ぶかの区別は、心理学の中でもそれぞれの研究者にゆだねられているのが実情です。
   宅香菜子「悲しみから人が成長するとき――PTG」

 「サバイバー」たちの多くが、外傷体験とそののちの生のなかから「成長」を感じ取ってきた、そのような成長がたしかにある、心的外傷後成長とは、せいぜいがそういう話である。そして、それが傷ついた者たちにとっての希望や指標となりうるのならば、「心的外傷後成長」の概念としての有用性は、すくなくとも完全には否定されるべきではない。
 たしかにフランクルの伝記「人生があなたを待っている」を読んでいると、収容所体験をもつフランクルの快活さ、ジョークの数々、天真爛漫な人柄に、惚れ惚れと心を温められるが、このような時、心的外傷後成長とはかくのごときものか、と膝を打たざるをえない。もっとも、フランクル当人の講演録で語られる内容は、いずれもラディカルであるのだが。

 私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。
   V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」山田邦男/松田美佳訳

 諦めの深甚さに、打たれたようになるのは私だけだろうか。
 フランクルは「それでも」人生にイエスと言うのだ、と語っている。ここでは「イエス」に先だって、「それでも」にアクセントがついているのだ。彼は単純なオプティミストではない。この、「それでも」にフランクルの世界観は、凝集されている。世界とはどうしようもない、ガス室ユダヤ人たちを放り込んだあとも、なお地続きにつづくこの世界で、人間は人間としての行く末を失いかけている。あるいは、すでに決定的に失ってしまっている。世界は、そこに生きる人間は、とことん不条理で、無惨で、浅ましくなってしまったが、「それでも」人生にイエスを言うことを、彼は選ぶ。神に対する不信がはびこった世界のなかでそれでもなお、神を信じる「勇気」が尊いのだ、と説いたパウルティリッヒのように。そうでなければ、見限るように、しかたもなく、一線を踏み越えるかのようなこの「それでも」がなければ、彼は彼として、生きることがもはやできない。

 レジンスターによれば、ニーチェニヒリズムとは、もっとも簡単にいえば絶望であり、「人生は意味がない、あるいは、人生は生きるに値しない、という確信のことである」。それは必然的にペシミズムを含むのであるが、ペシミズムの徹底でもある。そしてなによりも重要であるのは、ニーチェは、ニヒリズムを克服するためにニヒリズムを用意をした、その点なのだ。ベアトリーチェとの再会を、その高揚を最高潮にで至らしめるため、地獄篇を用意したダンテにも似た周到な手つき。
 ニヒリズムを克服するために必要であるのは、生を否定する諸価値が、けして最高の諸価値ではないと示すことである、「生の否定を支持する諸価値に対抗してなされる以上、この価値転換は生の肯定という反対の態度を可能にするものでなくてはならない。(中略)ニーチェは生の肯定を自分特有の哲学的業績と見なしていた。それゆえニーチェは思想史における自分の位置と重要性を、価値転換という自らのプロジェクトの成功に賭けねばならなかったし、実際彼は何度もそうした。というのも、それだけが肯定を可能にするはずだからである。そして生の肯定が彼にとって重要であるのは、究極的には、ニヒリズムが自らの哲学の中心問題だとニーチェが考えていたからなのである」。
 このレジンスターのニーチェ解釈は、苦悩や絶望の克服、という図式以上に、――読めば読むほどに、心的外傷後成長にとっての有益な、実質的な収穫を提供してやまない。実際、「克服」を「成長」と読み替えるまでもなく、概念操作としてはいうまでもなくニーチェのほうが、がん患者の語り、という単線的―モノローグ的な世界よりも、豊かなものを有してしまっているのである。

 ニーチェは、苦悩は無価値だという根底にあるその考え方を問いに付すことで、ニヒリズム的絶望という帰結を克服しようとしました。ニーチェはそれを達成するために、同情が苦悩そのものへと適切に向けられているという見解に異議を唱え、決定的に非快楽主義的な幸福構想を支持したのです。この構想においては、ある人の人生が本人にとってうまくいくのは、自らが選んだ諸目標の追求の中で抵抗と対峙しそれを克服する諸活動に従事するようになる限りにおいてです。(中略)より重要なことに、ニーチェは、「力の増大」から帰結する「成長」に幸福を位置づけるという長きにわたる伝統から出発しており、その見解は、現在に到るまで、幸福の心理学的研究から実質的で経験的な支持を集め続けているのです。

 バーナード・レジンスター「生の肯定 ニーチェによるニヒリズムの克服」岡村俊史/竹内綱史/新名隆志訳

 いま一度、PTGの体現者といえるフランクルをみてみよう。フランクル夫妻はだれにでも磊落に振る舞った。フランクの教え子であった伝記作者が、夫妻の住んでいるがさつな街の通りをともに歩いている途中にも、ハイデガーとは昔友達だった、といったことを言って喫驚させたり、ブラック・ジョークを飛ばして笑い合い、ある時には、

 フランクル夫妻は通りの先にあるマクドナルドを指さして、あそこのチーズバーガーが大好きでね、と言った。やわらかすぎるパンには閉口するけれど。

   ハドン・クリングバーグ・ジュニア「人生があなたを待っている」赤坂桃子訳

 いかに生死を境とした、歴史的体験のさなかに放り込まれ、そして生き延びたとしても、ひとは「その後の世界」を生き続ける。そしてその後の世界とは、今私たちの眼前に広がっているように、大抵はありふれていて、しみったれていて、ごてごてとした下世話な看板が貼りついた、まさしくマクドナルドのバンズに挟まった青菜のように、しなびて、だらしのないそれであるしかない。だれもが傷つきながら、多くの場合、それでもなお生きることを選ぶ。人間とは一体なにであったというのか。それが、哲学上の興味関心ではなくなりつつある途上で、フランクルはかくのごとく、戦慄すべきことを宣う。

 たしかに、過去の年月によって、私たちは冷静になりました。が、その年月を経て、人間性が問題であることもはっきりしたのです。すべては、その人がどういう人間であるかにかかっていることを、私たちは学んだのです。最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。なんといっても、そうです! ついこのあいだ起こったどんなにおぞましい出来事の中でも、そして、強制収容所の体験の中でも、その人がどんな人間であるかがやはり問題でありつづけたのです。
   V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」山田邦男/松田美佳訳

 なんと単純で、それがゆえに、おそるべきことか。もちろん、フランクルは収容所体験のごとくに極限的な状況のことを言っている。しかしそこから得られた認識は、持ち帰られなければならなかった。この「だけ」には、数多の人間が成してきた人間的な思索が、感受性が、そもそも人間というモチーフの無効が、深々とした虚無のうちに捉えこまれていたのではなかったか。それであったがゆえに、フランクルは、ひとに対して明るく振る舞うことを、けしてやめることができなかったのではなかったか。そう思うと、そこには彼が立派なひとであったと、思うがために、思うが分だけ、強烈に、空々しい、寒気をもよおす何かを、感じさせられる。それは単に「サバイバー」というのを越えて、ただ今を生きるだけで傷つき、失い、なにかを毀損させられ、なおも日常を続けていくほかない、私たちの虚しさでもあるからだ。