本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「くだけたガラスをわたる風の跫音」――エリオット「荒地」、島尾ミホ「海辺の生と死」、ピーター・アクロイド「T・S・エリオット」

 四月はいちばん無情な月
 死んだ土地からライラックを育てあげ
 記憶と欲望とを混ぜあわし
 精のない草木の根元を春の雨で掻きおこす。
T・S・エリオット「荒地」深瀬基寛訳

 統合失調症の母が二年前、脳梗塞で斃れ介護施設おくりとなって以後、はたして母に、他者にむけられたかたちでの「人生」というものがあったのだろうかと、時に深くもの思いに耽らされている――このように書く他もなくなって、じかにこう書いてしまうのであったが。それはそのまま、人生とは一体何であったのか、人間とは生きて死ぬだけのそれではなかったのかという身につまされるような深省、でもあるわけである。
 幼年期にレイプをされて実父から見捨てられ、その後、教育も受けずに子供を三人産み、しかし食事もまともに作ることもできずにほぼ寝たきりで、たまに起きたかと思えば統合失調症の陽性症状で家族を振り回すことに、生涯を徒費していた母の人生とは、一体なにものであったのか。私はそれを思うと、深々とした虚無、壁に打ち明けられた巨きな唯物的な穴を見詰めさせられているような気分となり、油断をしていればそこに吸い寄せられていく自分をはっきりと感じる。
 この島尾敏雄「死の棘」にも出てくるテクストの書き手は統合失調症であるのか、否かは、判然とはしていないらしいが、私が統合失調症の書いた文章としてもっともしっくり来るのは、アウトサイダーアートのような仰々しいものではなく、次のような文章だ。

 学校の帰り道でのこと。おおぜいの子供が海辺のきん竹の生垣にとりついて騒ぎたてながら中を覗いていました。何が起きているのかしらと思い、両手で垣根を力いっぱいこじあけた私は、顔を押しつけ竹の葉が頬を刺すのをがまんしながら中を見ました。しかし別段変わったこともなく、山羊小屋の中の白い雌山羊がゆったり横になり、口をなかば開けて「めえーん、めえーん」と柔らかな声をふるわせているだけでした。でも子供たちは興奮した息をはずませ、「うれ、うれ」、「きばれ、きばれ」などと男の子も女の子も声をはりあげて雌山羊を励ましていました。と突然その後足の間から白い塊がぼわーっとあらわれ出てきたのです。私はびっくりしました。子供たちはいっせいに「はあー」と心から安堵のため息をつき、「いっちゃた、いっちゃた」とはずんだよろこびの声をあげました。雌山羊はゆっくりと体の向きを変え、首をうごかしながら自分の舌で波打っている白い塊をいとおしむようになめまわしました。
島尾ミホ『誕生のよろこび』(「海辺の生と死」収録)

 日ごろ、今のくらしのなかに心をむけています時、私はそこにせいいっぱいの気持をよせていますが、ふと、やすらぎのうちに心の紐を弛めますと、すぐに私の心はちちははといっしょに暮らしていたそれも幼い頃の思い出のなかにつつまれてしまいます。心の奥ではちちははの声が絶えず私に語りかけていまして、私をずうっと遠い日に連れ戻していくのです。空を見上げれば蒼穹の果てには、ちちははのほほえみがいつでもありますし、雲の流れにも遠い日々にみたその姿が今に重なりあい、時はひとつにとけあってしまうのです。
『茜雲』

 どちらも、せいぜいが地方の文学賞でも獲って喜んでいる程度の文章であり、良い文章ではない。それはイディオムに満ちた文章も、内容のあり方も、陳腐に過ぎるためであるが、なによりも中高生の「作文」的な、一種の模範的な文章の成り立ちに、この文章がすっぽりとおさまって、居直っているからである。そしてその優等生然とした、無自覚な居直りは、私にとって身近なものとしての「統合失調症」を感じさせる文章として強く、既視感がある。
 平素、口先からはこのような無害なことを言いながらも、すぐと一転してこの書き手は、あらぬ妄想で夫を責め立て、そのためにはいくらでも口汚い語彙を用意しながらも、しかしけして自らの成していることを恥じることがない、むしろ妄想を吐くみずからを正当化できるのは、このような無害で綺麗事の世界を本当に、信じているからである。
 子供の姿を捉えながら「めえーん、めえーん」と羊の鳴き声を書き表す、退嬰的な身振りや、「空を見上げれば蒼穹の果てには、ちちははのほほえみがいつでもあります」といったナイーブさというのでも無垢さというのでもない、気色の悪さといってしまうと問題があるが、外界への本質的な興味のなさに由来した紋切り型は、それを言ったところでなにを言ったことにもならない、なまじ型にはまっているが分だけの極限的な、空辞である。

 名目・世間体・評価に拘泥し、外面的な形式にこだわるのは、融通が利かず、杓子定規であるという彼らの行動特性を反映しているが、同時に自我境界の病理の一つのあらわれとも考えられる。すなわち、外面的な名目・世間体・評価を身にまとうことで、自我境界、自我同一性のあいまいさを補償しているのだと考えられる。
昼田源四郎「分裂病者の行動特性」

 つまりそこにあるのは――これも大分語弊のある言い方なのであったが……――およそ人間の発する言葉でありながら人間の言葉ではない、形式やルールそれ自体に準ずる、それと同化することを試みた言語なのであって、持続的にそれと対面をしいられる人びとが触れるのは、人間的な温かみを帯びた声のごときものではなく、言語それ自体が空回りをする、虚無的な機械音の羽ばたきのごときものなのである。ルイス・キャロルでも、ベケットでも、まだまだ手ぬるい言語の廻転。そして統合失調症者と対面をするということは、読書をする、という体験ではなく、もっと生々しいそのままの体験であり、加えて、それが一体なにであったのかと反省をする働きとは言語活動による他もなく、時にそれを身近に置く者は、狂気という、饒舌な空虚によって圧倒をされ、骨抜きにされてしまう。

 彼女は頭痛を抑えるために、さまざまなモルヒネ誘導剤と共に、アルコールを主成分とした薬剤を服用していた。しかしながら、病状はそれよりもずっと進んでいた。娘は「精神異常」なのかもしれないというローズ・メイ=ウッドの心配は的中したようで、エリオットもモーリス・ヘイ=ウッドも、彼女が何か自暴自棄なことを仕出かすかもしれない、と思い込んでいた。モーリスが語っているところによれば、ある時期に、「入院命令」をもらってヴィヴィアンをある私立の精神病院に――ヴァージニア・ウルフが精神異常の発作の折に入っていたような場所に――入れようという計画が立てられたが、彼女が「持ち直した」ために実行されるには至らなかった。これには他の証拠は全くないが、事態を関係者たち一同が非常に恐れていたので、そういうことはあり得たと思われる。エリオットにとっては逃げ場所はなさそうだった。自分がいかにしばしば週末を他所で過ごそうと、またヴィヴィアンがいかにしばしばイギリスやヨーロッパのサナトリウムを訪れようと、彼女の健康状態は彼の生活の基本に関わる事実だった。
ピーター・アクロイド「T・S・エリオット」武谷紀久雄訳

 駆け落ち同然の体でヴィヴィアンとイギリスに渡ったエリオットが、ブルームズベリーグループの界隈から不気味な男として「葬儀屋」とあだ名されたのは、妻のヴィヴィアンがあらぬ妄想からヴァージニア・ウルフの郵便受けにチョコレートを流し込んだりしていた事由にのみ、依るのではない。もとより彼は銀行員然とした、人間的には退屈な詩人であり評論家であったし、妻の狂気との格闘の末、そしてエリオット自身の保守思想との親和性をもつしがらみゆえに、遂にはキリスト教に帰依をしてしまう。当時のウルフら知識階級にとってキリスト教に入るなどということは、信じられないことであった。
 宗教を信じるに至ってしまうというのは、自らの主体性のごときものの降格を意味していたであったろうが、そもそもがエリオットの「荒地」(全篇が既存の小説や詩作品からの引用によって成り立っている長編詩)ももとは叙情詩のようなテクストであり、それを利用――というと事実関係としても違うわけだが、ごく端的にいって――したのが朋友のエズラ・パウンドであった。病状が悪化する妻を置いて、自らも神経衰弱におちいって休息をする療養地で書かれたエリオットその叙情詩を、パウンドはズタズタに切り裂き、スクラップをし、今ある「荒地」のかたちとした。いわば「キャントゥーズ」の前哨戦である。狂気との争闘のはてで疲弊をきたし、自ら「うつろな人びと」のようになったエリオットの名前で、パウンドは詩によるDJセット、サンプリングをかくして、遂行をする。
 フェルナンド・ペソアの企図を端緒とできるだろうが、現代において、「書き手」の消失を企図したテクスト、テクストそれ自体や、そこにある技巧のみが読まれるべき小説、または本ではない本、として書かれる小説は多いが、かくのごときかたちでまさしく非主体性のモチーフに貫かれた文学作品は、二度と現われることがないかもしれない。つづいて、パウンドはパウンドの狂気に瀕してゆくこととなるのであるが。

 われらはうつろなる人間
 われらは剥製の人間
 藁つめた木偶頭を
 すりよせる ああ!
 われらのひからびた声は
 囁きあうも
 声ひくくして意味なく
 枯草のなかの風
 またひからびた穴蔵に
 くだけたガラスをわたる風の跫音
T・S・エリオット「うつろなる人々」深瀬基寛訳

 人生一般に意味がない、生きることの意味などというものは本質的には存在しない――そのようなことを言うのは、容易いのであったし、それは俗耳に解した言い様でもあっただろう。だがそれも人間の言葉をつかって人間のことを云うのに過ぎないのであり、おなじ人間の口から、それに疑義を差し挟む種々の言葉がついて出てくるのもまた、私たちは知っている。問題は、存在の無意味さを、哲学的なエクスキューズやその手の浮ついた精神論のようなかたちではなく、「本当の人間の姿」を通して感得し続けた時、起こる何かなのである。いかなる答えも、おろか言葉として愁訴する一言をすら途絶えさせる、無意味さに染め抜かれた行き止まり。そこからは創造も成されず、建設的なかたちでの救済が訪れることもない。そのような見晴らしというものが、一個の人間に、たしかに訪れることがある。

(用意が不足で、「荒地」訳文、昼田源四郎氏の著作と、古いエディションからの引用が多めの記事となってしまった事、ご寛恕ください)