本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

本をだきしめて(八 最終回)

もちろん私たちはいつまでもそのように混乱をきたしているわけにはいかない。混乱、という言い方を換えれば、青年期の熱量。読書の世界において、みずからの詩情を優しく守ってゆくことは仮にそこにできたとしても、その熱量までをも維持していくことは、ひ…

本をだきしめて(七)

では意識的な選択として、一体私たちはどのような人間であることを、選んでゆくのであっただろうか――私たちは誤ったのだ。根本的な過ちを経た。青年期において、雑多な書物を読んできた私たちは、その選択肢の幅を大幅に拡大してしまう、という過ちを犯した…

本をだきしめて(六)

閑話休題。前々回のつづきとして、書き継いでいくことにするのである。「読書行為」というのは、読書によってみずからを迷宮へといざなっていく行為と相似ており、それは私の陳腐な言い方にならっていえば「地獄」に似た様相を、帯びることもある、という話…

本をだきしめて(五)

けだし、若年期の期間における読書とは、自己の感性の探究、模索にならざるをえない。好き嫌いというのを超えた地点から、みずからのそれでも譲ることのできない文飾とはなにか、共感をよせてやむことのない詩情とはいかなものであったのか、をたえず書物の…

本をだきしめて(四)

資本論はおいておくとして、こうした私の態度はすでにして、当時としては「保守」寄りの態度とみなされるそれであったということは、附言をしておきたく思う。インターテクスチュアリティはナショナリズムと親和性が高い、……というような議論のレベルでもな…

本をだきしめて(三)

そしてその道とは気ちがいの母親からの、逃避行として用意された道でもあっただろう。どうあれ読書行為とは逃避なのでありもしようが、私の場合には、様相を異にしていたのではなかったか。――ともかく、みずからのことを特権化するのは止すとしよう。私が初…

本をだきしめて(二)

私がいまだに「趣味は読書」という言葉に違和感しかもてない、その状態というのをすこしは、垣間見ていただけたのか、とも思うが、結句それはお他人からの納得も、もちろん共感や同情も求めていない、どころか納得されることにも共感されることにもすぐと反…

本をだきしめて(一)

不幸なことに、みずからの半生をつとふりかえってみた時に、趣味は読書です、と言って済ませることのできた期間の、ほんの一期間とてなかった私なのである。もちろん、これからも「趣味は読書」は私の身に起こりうるものではないだろう。ひとは物書きをめざ…

芸と大食(十二 最終回)

ラーメンについて語ることは、避けようではないか。 「らぁ麺やまぐち」 低温調理のチャーシューを発明した天才、「麺処ほん田」が神田に設けた「本田麺業」 錦糸町「佐市」の牡蠣出汁ラーメン。あまり有名ではないが絶品 恵比寿にあった「まちかど」は鯛出…

芸と大食(十一)

さて、神保町にふれておいて、うどん屋さん一軒だけを取り沙汰するのは、本好きとしてあるまじき態度である、といえただろう。なにせうどんはうどんなのだから。そして、なにせ神保町は、神保町なのだから。 この世界有数の古書街についた私たちは、矢口書店…

芸と大食(十)

もののついでに、うどんの話をしてみよう――。蕎麦とはまたことなったヤッカイさがついて回る、のだろうか、うどんというのは……。むずかしくなど考えないでいいものの最たる食べものだ、うどんは。 うどん、というその言葉の時点で、うどんというのはどこか素…

芸と大食(九)

暇があるとどうしてもメゾンエルメスに入ってしまう 東北の地方市街地で蕎麦を食べるということに、どう解決を見出したものだっただろうか。 私がヤッカイなのではない。落語でも聴いていただければわかるとおりの、蕎麦という代物はまごうかたなきヤッカイ…

芸と大食(八)

その話をしたのならば、数寄屋橋付近、泰明小学校を窓からのぞむオーバカナルのパナッシェに、私はふれずにはいられない。 食に親しんできただれもが、酒についての個人的な来歴をもっている。ラーメン店ばかりにかよっているのではないかぎりは、食事をする…

芸と大食(七)

書物が私たちの感じたことのない感覚について教え、世界の広がりを認識させてくれたように、食べものもまた世界の広がりを、認識というともすれば綱渡りのようなものとはことなって、味蕾に直接に、教示をしてくれる。 いまやネパール人のつくるカレーは日本…

芸と大食(六)

実際、バーと古書店が、かろうじて私の二十代を二十代らしく飾ってくれていたものだったと、個人的な体験として、私には回顧される。 そしてそこには、甘いカクテルを注文をするなり私を適切にたしなめてくれる先輩が必要であり、もちろんウォールナット材の…