本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

2022-09-01から1ヶ月間の記事一覧

「柔らかい穏やかな光の地帯」――サガン、アンドレ・モーロワ

ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚な…

「闇の中に閉じこめられた複雑な機械」――谷崎潤一郎「青春物語」、伊藤整「若い詩人の肖像」

谷崎潤一郎の文章に不感症である。 官能的な色や、感触ではない、ただ散文的な印象をどの小説からも受け取ってしまうのだ。 十七歳かそこいらで「細雪」を読んでいたことも、その一因であったかもしれない――近所に学校があり、そこで学生らが華やかに声を上…

「どこにでもある、ありふれた話だ」――杉本博司、ペソア、アルトー

恋人にモノでも贈ろうかと銀座の街をふらつくが、宝飾店に入るほどの大上段の心意気でもない。室生犀星が書いている、「女の人にものをおくるということは、たいへん嬉しいものである」(「随筆 女ひと」)というような得手勝手な欲求を、みたす分だけのほん…

「帝国文学も罪な雑誌だ」――村上春樹「風の歌を聴け」、夏目漱石「坊っちゃん」

今、僕は語ろうと思う。 もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。 …

「香水とポマードの匂いに涙の匂い」――菊地成孔「スペインの宇宙食」、鈴木博文「ひとりでは、誰も愛せない」

ハコでは爆音に曝され、宅では新音源をヘッドフォーンを用いて大音量で一日に百も聴く習慣があるため、左耳に軽度の難聴をもっている。よく人の言うことを聞き返すし、すこし声を張っただけのつもりが、大分おおきな声で発声をしていたのだとあとで知り、顔…

「混沌の中に秩序を発見すること」――メアリー・ウォーノック「想像力」、岡野憲一郎「快の錬金術」など

日本の純文学、といった時、ステレオタイプとして連想される性質の文章をひとつ、引いてみよう。この場合ステレオタイプに過ぎる、のであったが。 彼は剥げた一閑張の小机を、竹垣ごしに狹い通りに向いた窓際に据ゑた。その低い、朽つて白く黴の生えた窓庇と…

草野心平記念文学館にゆく――伊藤整「若い詩人の肖像」を添えて

美術館で絵を眺めているうち、カタルシスに浴し慣れたためもあってか、あるいは銀座で画廊めぐりなどしているうちに「どうせ手に入らない絵なのだから……」という要らぬ自意識を身につけたせいか、――それでも結句美術館がよいは止めることはできないのであっ…

「そして彼は、この自由に対して」――ミシェル・トゥルニエ「イデーの鏡」

テクノロジーはまだしばらくの間は、クリティークな主題として問題化され続けるだろう。少なくとも私の世代にとってはそれは、すこしでも考えてみれば、自分の生活実感なり、あるいは人生のあり方や、また日々のパフォーマンスといった些事に至るまで、抜き…

「待て、黙れ!」――ウィリアム・ギャディス「JR」

ボラーニョの「2666」、フエンテスの「テラ・ノストラ」、ヤーンの「岸辺なき流れ」、ボレスワフ・プルスの「人形」……おもに中小の出版社から出ている、書棚にみつけた途端に魅了をされてしまう大著というモノがある(このなかではボラーニョの「2666」以外…

文学賞を獲って起こったこと――鹿毛雅治編「モチベーションを学ぶ12の理論」、アルフィ・コーン「報酬主義をこえて」、西村賢太「雨滴は続く」

小説家になどなったところが何になるのだったか。 実際にはどうなるのか? はれて新人賞を受賞をし、賞金が五十万程度、受賞作が単行本化されて十万二十万程度の印税、以降大体一枚五千円程度の原稿料(源泉徴収で一割抜かれる)で芥川向けの中篇を書かされ…

「なぜ先生たちは僕たちを人間として扱わないんですか?」――漱石「坊っちゃん」、フランク・マコート「教師人生」

挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。これは文学士だそうだ。文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のような優しい声を出す人だった。もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣を着ている。いくらか薄い地には相違…

「死を飼い慣らす」――西部邁「知性の構造」、「死生論」

保守派の論客として知られる評論家の西部邁(すすむ)さん(78)=東京都世田谷区=が21日、死去した。警視庁田園調布署によると、同日午前6時40分ごろ、東京都大田区田園調布の多摩川河川敷から「川に飛び込んだ人がいる」と110番があった。飛び…

「そこはわたしが生きている場所なんだ」――「果報者ササル ある田舎医者の物語」

あるとき、彼は患者の胸部に深く注射の針を差しこんだ。苦痛はたいしてないはずだったが、患者は気分が悪くなり、その不快感を説明しようとした。「そこはわたしが生きている場所なんだ。そこに針を差しこまれているんだから」「わかるよ」とササルは言った…