本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「老ピアニスト」――ウワディスワフ・シュピルマン「戦場のピアニスト」

 テレビはとうぜんインターネットで得られる情報などというものも何等アテにはしていないために、時局にはうとい。その一種の怠け癖にはまた、凝り性であることも一因としてあるのであって、ひとつの時事に半端に首を突っ込むことを、私はうとんじているのである。どうせ興味をもったのならば、図書館で書誌をあさって、関係する文献からノートをつくる、ということをしなければ収拾もつかなくなるのを、みずからの無知を知っているがゆえに、なにかを聞いて知ったふうになることが、嫌なのである。それが災いして、ろくろく世間を騒がせているニュースも知りはしないのだったから、ひどいものなのであったが。

 スタジオの外で、放送局で働く老ピアニストに腕をつかまれた。親愛なる老先生、ウルシュタイン教授だった。通常、人が人生を時間や月日で測るところを、彼はピアノ伴奏をしてきた十年単位で測る。教授は何か過去の出来事の詳細を思い出そうとするとき、お定まりの前置きをして始めるのだった。「さあて、ちょっと考えさせて下さいよ。私はその頃、誰それの伴奏をしておりましてな……」そして、道ばたの里程標のように、何年の何月何日、誰を伴奏したかを思い出すと、決まってその他の些細なことまで思い巡らすことになるのだった。今や所在なく茫然とスタジオの外に立っているだけの老教授。この戦争はピアノ伴奏もなしにどのように遂行されるのか。一体、どうなってしまうのか……とでも問いたげに。
ウワディスワフ・シュピルマン「戦場のピアニスト」佐藤泰一訳

 私たちは私たちの表現活動を脅かすほどの、本当の脅威というものを知らずに過ごして来たし、これからも過ごし続けずにはおられない。それはもっとも現実にせまるものは台湾有事だろうが、それが本当に起こる時まで、ついぞ知らぬ顔でいつもの通りに、いつもの通りの変わらぬ主題、有事の際ではありえぬそれを、書きついでゆく他もないのであっただろう。東日本の大震災の以前から、横光利一でも書いていたような時代だ、と世間の空気を感じ、今はそれをより濃密に感じさせられているなかで、しかし、ついぞそうある他もないふがいなさ、空白の、凪いだ時代を生き続けてきたみじめさ。かといって本当になにかが起こった時に万全の、みずからの構えで書いていられるのか、どうか、試練に耐えられるのかもおぼつかない仕儀なのであったのならば、私の書くということは何であったのか。

「荒々しい線で絡み合う男女」――池上英洋「官能美術史」

 萌え絵が好きである。あの爬虫類のような瞳で目が描かれた、フリルのたくさんついているようなきわどい衣裳を身につけさせられた、美少女キャラクターたちのことが、である。それは美術と対照にあるものであり、対照にあるものとして適切に世間一般でもあつかわれているが、いっぽうででは美術にまつわる理窟などというものも、じつに軽薄なそれではなかったか。もちろん、萌え絵の軽薄さとはことなる位相や水準でのことなのであったが、知識を身につけて美術をみる、ということが美術館がよいなどをしてオリジナルをみる機会を多くもっていると、本末顚倒の気がしてならなくなる。それは、こちらが未熟だからであるのだが、いわゆる知識が邪魔をする、ということがままある。

 鹿島茂が書いていたのだが、ルーブル美術館で絵をみていたら、脇に来たフランスの親父が「ええ乳やなぁ」と感想を洩らした、という。たしかに美術館は女の裸身の宝庫であるのに、ちがいもあるまい。もちろん、では「ええ乳やなぁ」がけがれなき芸術をみる目、でみた本物の感想なのか、といえば、それは一応は違うと、云いたくはなるし、おそらくはちがうだろう。ちがうだろう、というか、美術品を前にして適切とはいえない、別種の純粋さがそこでは発揮をされているだけである。
 「官能美術史」でレンブラントも男女の営みを絵に描いていたと、初めて知った。

 少なからぬ大画家たちが性交場面を描いた。激しい体位のラフスケッチを残したアングル。荒々しい線で絡み合う男女をとらえたジェリコー。風景画で有名なミレーや成功者ルーベンスまでもが、性の場面を写し取っている。
 〈フランスの寝台〉と名付けられたレンブラントのエッチング画は、男女の睦みごとをこっそりと描いたものだが、この画家の偉大な特質をよく備えている。実にこまかな線刻。黒一色とは思えない濃淡。主たる対象とそのまわりの空間を、画面にバランスよく配置した構図。そしてなにより、神話や聖書の主題だけではなく、庶民のごく普通の生活や、そこでのないげないショットをも等価な主題としてみる独特の視点。A5紙大にもみたない小品ながらも、この版画は、一切の美化を排し、現実的な庶民のセックスそのものを純粋に描写したはじめての作品となった。
   池上英洋「官能美術史」

画像はレンブラントの「バテシバ」

 それにしても絵画の解説というのは、わざわざ「夕陽のような赤」だのといった文学的修辞にのがれずとも、事実を淡々と列挙をしていくだけで成立するのだったから、すばらしい、とこの文章にまで、私はなにか溜め息をつくようなおもいを抱いてしまうのだったが、たとえば、文章作品を前にしてこうした解説を加えることは愚かしいのであって、そもそもがおなじ文章なのである以上その実物のテクストを読めばいい、というのもあれば、中上健次であれ村上龍であれ村上春樹であれ、そのセックス描写を今、卒業論文のようにして取りあげること、その営み自体に、着手するより先の無力感をもってしまう。たしかに性描写は、作家と作家の間の差異を強調づける重要なそれではあったのだったが、セックスそのものはこんにちにおいては、イデオロギーとして成り立たない。描写をする文章そのものに作家性はあっても、書かれるセックス自体は身ぐるみ剥がされた代物にすぎないためだろう。

 スタンダールの「赤と黒」に集約をされる、宮廷恋愛、社交空間における恋愛を世界は失って以降、性描写は小説の世界においても、瀰漫をしはじめる。「赤と黒」の主人公はレナール夫人を前に、恋をしているという真情をひた隠しにかくし、建前の世界で立身出世をとげるわけだが、社交空間なきあとには建前はもちろん、隠されることによって密度をたもってゆく「真情」、恋愛感情も、すくなくとも、稀少な代物へと成り下がってゆくこととなる。恋愛がかつてあったような純度の恋愛として成り立たなくなった、その時代以降におこるのが、プルーストの直接の影響を文体にもちながらその文体で倒錯的に性を描いたジュネであり、ヘンリー・ミラーまで来れば、あとは現代、ブコウスキーの頭がみえてきたか、となる。ブコウスキーによって描かれるのは、なげやりなまでに包み隠したところのない、セックスであり、かといってそこでは抑圧された性の解放やら、奔放やら、が売りにされているわけでもない。ただ、セックスが無味乾燥なセックスとして、書かれるだけである。もはやそこでは、セックスはロレンスやミラーが称揚したような意味を失い、イデーとしての力を失っている。そしてそれは、もちろん、いかに大久保公園でさかんに売買がかわされている今であっても、変ずることはないのである。

「まあ田舎の平凡な母親」――坂口安吾「おみな」、村上護「安吾風来記」

 私が小説家について勉強をするように読むはじまりとなったのが坂口安吾で、それは柄谷行人がハイデガーとならべて称揚をした、という奇妙な文脈にのってのことではなく、彼が「吹雪物語」という小説を書いていたこと、そして今ひとつは彼が毒親そだち、のように当初、みえたからであった。今でも坂口安吾の「堕落論」を、というよりも、安吾そのひとを考える時に、「おみな」という小説について考えてしまう。

 九つくらいの小さい小学生のころであったが、突然私は出刃庖丁をふりあげて、家族のうち誰か一人殺すつもりで追いまわしていた。原因はもう忘れてしまった。勿論、追いまわしながら泣いていたよ。せつなかったんだ。兄弟は算を乱して逃げ散ったが、「あの女」だけが逃げなかった。刺さない私を見抜いているように、全く私をみくびって憎々しげに突っ立っていたっけ。私は、俺だってお前が刺せるんだぞ! と思っただけで、それから、俺の刺したかったのは此奴一人だったんだと激しい真実がふと分りかけた気がしただけで、刺す力が一時に凍ったように失われていた。あの女の腹の前で出刃庖丁をふりかざしたまま私は化石してしまったのだ。その時の私の恰好が小鬼の姿にそっくりだったと憎らしげに人に語る母であったが、私に言わせれば、ふりかざした出刃庖丁の前に突ったった母の姿は、様々な絵本の中でいちばん厭な妖婆の姿にまぎれもない妖怪じみたものであったと、時々思い出して悪感がしたよ。
   坂口安吾「おみな」

 いつも通りの失敗作なのであるが(全集をひととおり眺めわたした時、安吾という作家は成功した小説よりも失敗作のほうが多い作家である。安吾は父親についても「石の思い」で不満を述べ立てているのだが、「風と光と二十の私と」につらなるこの系譜は、いずれも出来の良い作品に仕上がっている)、実際に家は質素な暮らしぶりを強いられていたものの、安吾の伝記のなかでは存命中の作家の周辺人物にあたっている点でもっとも重要な村上護の「安吾風来記」を開いてみると、事情が垣間見られる。

「母という人は、炳五が書くようなんじゃなく、まあ田舎の平凡な母親でしたよ」と、坂口上枝さんは語る。
「それにしても、政治家の家は表面はいいかもしれないが、裏は火の車のやりくりというのが実体だった。そのため子供たちが遊びに使う金などももらうことはなく、日常は質素な生活でした。安吾は意地っぱりだったから、それが不満で、直接には母に反抗したのかもしれませんね」
   村上護「安吾風来記」

 安吾の場合には、ただボーダーラインパーソナリティ障害というよりも、「虚言」をキーワードにしたほうがいろいろと分かりやすいところが見えてきただろう。眼鏡を買ったらサングラスで学校に行くことができなかった、だの、精神疾患になった、だのというのも、あらゆるところで疑ってかかる必要が出てくる、ただ自己演出というのでは済まされない、なぜこのようなことを言ってしまっているのか、と時に呆然とするようなことを、安吾は平気で書いてくる。その傾向は、観念小説的な結構をもった「白痴」に活かされているだろう。
 どうあれ、彼は実母というものを文章中において、許すことをしなかった、辛辣にあたったわけであったが、このように書くことの疚しさというものから、人は無縁ではあれないと私はかんがえる。それは、実際に、(私の母親のことだが)統合失調症の母親をもった人間にしても自分を不遇だとみなして、妄想に振る舞わされ罵声を浴びせかけてくる母親のことを酷い母親だ、となじるみずからの心性なり、それらにまつわる自己言及をして、疚しさから逃れることはできないのである。シック・マザーはシック・マザーである、という合理的な言い方は一面で正しく、それ以外にはないようにみえるが、――こういってもいいだろう。母なるものというよりも、一個の人間に対する対し方として、万全な態度などというものは決してあるわけではないのだ、と。そこをついて出るのが私のいう「疚しさ」であり、疚しさとはしかるべき誠実な態度を用意せざるをえず、その出方は色々である。

 蔵書目録などをみるともとから安吾の場合には、歴史や、精神分析といったものによる、全体性への欲求があった。それはディレッタント的な傾向として、世界のすべてを書物によって掌握せんとする態度への用意であり、ある程度はその自負も安吾は、有していたものとおもわれる。それによって彼が潜在的に惹かれていったイデオロギーは未来派である(日本における無頼派、というのは、なによりアヴァンギャルドの謂いである)。まあそれは、いいとして、「堕落論」というのはディレッタント的な誠実さから出てくる言い様にほかならないのであり、みずからも「堕落」をきたしたという内省もそこには含まれている以上は、彼は知的であったのだ、ということになろう。そこには野放図な、言いっぱなしといおうか、ロマン派的なレトリックが大いに作用をしているとも感じられるし、「吹雪物語」のような小説にむけて二度と筆を執るまいとする(事実彼はもうあのような大作に挑むことはなかった)意志としての「堕落」なのであったのならば、単に、情けない、理知的に情けないという非常に不思議なテクストなのであったが。

「言葉のやりとりがまるでない」――長沢光雄「風俗の人たち」

 すっかりと映画ぐせがついてしまって、武蔵野館のついでに新宿TOHOシネマズと蜜月になるうちに(おもに日比谷にかよっているのだけれども、TOHOシネマズは新宿のも超大型劇場で、夜おそくまでやっているから、いいものである。隣だかのIMAXでぐらぐらと席が揺れたりするんだけれども。友人と締めのサウナに行ってから、よしじゃあ締めの映画だ、とかやっているうちに、ゴジラとも親しくなってしまった)、私はついに発見をしたのだ。夜おそくまでやっていて、なおかつ、チェーンみたいないい加減ものではない、かつゴールデン街まで足を運ばずとも済む、個人店でがんばっているつけ麺屋さん。隠したってしかたがないから、言うと、にしきというお店で、鴨出汁に昆布水のつけ麺が美味しく、化学調味料をつかいながらもちゃんと鴨のスープをつくっているから好感がもてる。深夜もやっていてこの品質の麺が食えるのはすばらしい。

わが町・新宿

わが町・新宿

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 それはいいのだけれども、ほんとうに文句はつけようがないのだけれども、そこがまた、それはもう、歌舞伎町の面倒臭いストリートにあるのだった。私はもう歌舞伎町は怖くはないと感じるように、身体の組成が慣らされてしまっているのだけれども、あの路地の負のオーラは慣れることがないことの美がある、って、なんだかわからない。
 というのは大久保公園じゃないっていうのに、いつも、立ちんぼうさんがいらっしゃるんですよね。独特のスリルがある。それもそこそこのハイブランドの服を着た、街娼さんで、食券を買ってラーメン食べるためには、まずはその視線に、耐えなければならない、そこを通過しなければ背脂マシマシで、とかやっている場合じゃあない。それで私は、街娼さんの視線と、ひそひそ声って、ほんとうに素晴らしい、鏡だとおもうわけです。スタンダールは小説とは街をうつす手鏡のようなものだ、といったけれども、そう、パノラマで俯瞰なんかできるわけではないのね、鏡といってもそれはクリアーなものでも明晰なものでもなく、どちらかっていうと、相互作用的で、矮小なものにすぎない。それが、街娼さんを前にすると、男っていうのはね、よっくとわかる。表面的な、ものなのだけれどもね。自分の服装だとか、年齢だとか、セックスする場においてなにを要求してきそうだ、とか。むこうはスタンダールなんざ知りはしないわけだが、だからこその、明け透けな、実直な見え方がしている。それが、怖い。

 昔はいくら幼児になるといっても、せいぜい幼稚園児どまりだったの。だからまだ言葉でのコミュニケーションができたのね。『何をして欲しいの?』と聞けばちゃんと答えが返ってきたのよ。それが今は、〇歳から四歳までになるお客さんがほとんどなのよ。もうひたすら『アブアブ』だけ。言葉のやりとりがまるでない。
 それとね、昔は哺乳ビンを与えておけばよかったんだけど、今はみんなオッパイを吸いたがるわね。哺乳ビンは絶対にイヤだって。思うんだけど、今の二十代ぐらいの子で母乳だけで育てられた子って少ないじゃない。昔は電車の中でオッパイを出して赤ちゃんに吸わせてたお母さんは沢山いたけど、今は全然いないでしょ。だからオッパイの感触に憧れてるんじゃないかしら。
 甘え方も変わってきたわね。昔はオンブしてとか、だっこしてとかの要求が多かったけど、今は圧倒的に添い寝ね。ママの腕枕で寝たいとか、添い寝してただギュッと抱きしめてくれとかさ。そのまま本当に眠っちゃう人もいるわよ。これもやはり、今のお母さんたちが添い寝とかあまりしてあげないからだと思うわ。外に出る時も乳母車だし、自立心を育てるとかいって、早いうちからお母さんと別に寝かされたりするでしょ。だからスキンシップに飢えてるんだと思うわ。
   長沢光雄「風俗の人たち」

 六本木のSMクラブで幼児プレイをする嬢の言葉だが、保育士どころか児童心理士でもかくや、という教育的分析になっているのが、おもしろい。
 書いている長沢光雄は、あんまり、怖がる視線がないからイヤだ。女に怯える、というふつうの態度がなくって、ゴシップばりの興味本位で近づいているというか、まあここは好みの問題だけれども、私は単純にイヤな奴とはしばしに感じとってしまう。
 水商売とか風俗っていうのは、心が傷ついたひとが多い稼業だからね、そうすると自然と、人間がみえているという娘が多い。みえている、といっても、こういう幼児プレイのは例外として、それは屈曲をしたした見方なのだけれども、屈曲のしかたが独特で、それがこっちに、伝わって来るんだよ。それで怖いなぁ、しんどいなぁ、となる。人間、だれしも、相手のことを誤解をすることによって理解をしているわけだけれども、その誤解のしかたが、通り一遍のひとたちとはちがう、それも風俗なんていう、人を相手にするシノギのなかでもシビアな仕事んなかで、鍛え上げられた目っていうのが、あるから……。いや、変な意味とかではけっしてなくて、だから、私はああいう路地で、ひとに、そういう品定めされる目でみられると、ぞくぞくとしてしまう。鏡の光に照らされた気分になってしまう。たぶん、それって、まっとうな気分なのだけれども、自己帰属感が薄いからね、それをより強く感じてしまうのだろう。自分もまだまだだな、と、立ちんぼの視線をヒリヒリ感じながら、健全なことを思っていてしまう。
 まあとにかくそういう心がけで、私は日々、深夜までかかっている映画を観ては鴨汁昆布水つけ麺に、臨んでいるわけだね。

「ふふふと笑う」――山田詠美「放課後の音符」

 SNS患者やるのって気持ちいいんだよね。私もイヤイヤその流れに乗ってきた、相応に乗ってこられていたから、わかる。あれはノッている感覚、生活を一定のリズムに差配をされる、アディクションの気持ち良さなわけだ。本当はアル中病棟にいかなきゃなんないのに、パチンコ屋とか麻雀屋とかせこい居酒屋で、アル中を続けている、そのたのしさ。安い快楽だといえば、そら、そうだよ。まわりから一蹴されているということを意識できないから、だから、アディクションなのであって、なにを言っても無駄、私にはコロナはただの風邪だと言い張る陰謀論者も、それに必死こいて反論をするひとらも、いっしょに感じられてしまう。もちろん、輿論がどうと、がんばって、しゅくしゅくと正論を述べ立てている専門家はおられるだろうが、すくなくとも、それに乗っかって返信欄をにぎやかしたり、おおっぴらにネット上で同意をしたりしている奴等は、全部中毒患者だよ。
 安倍政権を必死こいて、知識人だとか法曹関係者だとか中国の工作員だとかにまんまと乗っかって、叩いていた奴等にしたって、本当にひどかったものだが、昔、第三の新人っていうのが作家たちでいてさ、戦後の問題とか大変なのに、戦争について書いても、内部抗争とか、学生運動とか、そういうどうでもいい問題ばっかりを書くんだよ。なんだよありゃあ。宗教の問題とかね。だから、さ、そっちの側に就いているとラクなわけだ、現実をみなくたって済むんだよ。せいぜいがネットとか、選挙とかの、擬似的な現実に参与していれば、それが現実だ、ということになる、自己肯定感もみたされるわけだ。まあ彼ら(第三の新人たち)の場合には、知的なかまえがそうした彼らなりの戦線を用意させたわけだけれども、SNSジャンキーはどうしようもない、立派な、底にたまった澱だぜ。

 カナは十七歳だけど、もう男の人とベッドに入ることを日常にしている。彼女の話を聞いていると、色々な男の人が登場して来て、それだけでも驚きなのに、その人たちが彼女と普通にベッドに入るので、もっとびっくりしてしまう。そんな私を、カナは、ふふふと笑うのだ。そして、言う。あら、寝るだけよ。寝るだけといったって、眠るわけではないのだから、私は、その様子を想像して、ますます困ってしまうのだ。私はまだ、男の人と、ただ、寝たことがない。
   山田詠美「放課後の音符(キイノート)」

 ほんとうは、西村賢太あたりをぶっこめば話は通り易いのだ。
 もちろん舞城王太郎とか海猫沢めろんとかはいるとしても、インターネットの空間なんていうものと対照にあるのが、小説だったはずなんだけれどもね。だってネットの横並びで、半角カタカナとかが攻撃的につかわれたりする書き言葉っていうのは、言文一致体いらいの日本語の革命ともいえてだ、もうそれによって失われたゆったりとした書き言葉っていうのが、私たちの日常生活から、やがては日本文学からも、すっかり毀損されて、失われていくんじゃないかと、危ぶまれる、というかいまさら危ぶむのもおかしいくらいに飽和状態なわけだ、それは。

 そのいっぽうで主体はうんと幼くなっていく。文系、理系とか、表面的な議論はそれらしくやるのが好きだからね、SNSとか。幼いといっても、性体験だけは信じられないくらいに、早く、小学生とかには終わらせていたりするから、そこも面倒なところだ。セックスも知って、あとは知らない知識はネットで知ったということにして、スカしていられるっていうわけ。ほんとうに豊かな情報っていうのは街場のなかにあるんだと私はおもっているし、セックスなんていうものひとつで人間と人間の関係性なんて、語り尽くせたものではないのだけれども、じゃああらためてそれはなんだ、語り尽くせないものってなんですか、って、言われても困るわなぁ。そうすると向こうさんは、ほらみたことか、人文学なんて曖昧なんだ、とか、やって来るわけだ。勝手にやってくれていていいわけだけれども。

 私は新人類世代に、てめえら総括しろ、と言ってけしかけるポジショニングをとっているんだけれども、でも正味の話が、山田詠美くらいまでは、純文学なんていって、頑張っていたんだとおもう。セックスを語りながら、セックスをすることの屈託とか、学校の授業なんていうものに比した人間の世界の奥深さ、非道徳的なことのいかに道徳か、っていうことを、彼女はくりかえし、ずっと書き続けてきた。それが今は多様性とかいうキレイゴトによって、かき崩されていっているけれどもね。多様性とかいうやつのひどいところは幾らでもあるけれども、あれはたとえば道徳、みたいな大きな価値観が成り立たなくなった、色々な人間を人間たらしめてきたシステムみたいなもんが本当に成り立たなくなったところで、出てきた解体の現象なんだよ。これまでは善かれ悪しかれ、金魚鉢のように全体をまとめていた大きな容器が崩れてしまって、その現象じたいを綺麗な言葉で固めているにすぎない。そして地べたの金魚たちが、てんで、大きな金魚たちについての印象批判をしている。それがネットだな。
 彼らには恥じらいというものがない。恥じらいという言葉は誠実さとか正しさという言葉と、裏表だとおもうんだよね。それが今、なくなってきている。含羞、なんていう言葉も昔はあったけれども、もう今つかうのには、厳しいよなァ……。ま、慨嘆していんのも、良くはない。ネットのぶつぎりの時間ならざる時間なんていうのはよしにして、小説の時間に身をゆだねて、ひとまずは、普通のひとである努力をしていこう、ということか。くだけてしまった金魚鉢のことはひとまず置いておいてね。

「虚心に純真に」――藤島武二「画室の言葉」

 まじめに遊ぶ事、そのむずかしさたるや、遊びをしながらに常々とかんがえて来ても、精確な手応えとともにそれを知ったつもりになることが、どうしても簡単にはできない。まじめに文章を書くといっても、そのまじめさというのは、堅気の仕事のように見て取りやすい眺めではないのであって、ペンを放り投げて散歩にでていてなにかを着想するのはよくあることとして、開店まぎわのパチンコに行ってみることで思い浮かぶネタというのがあるのかもしれないのだったし、それを言い出したのならばもうきりがなく、しかしそうあるほかない、もうきりがない、であるほかもないのだから、しかたがない、それは結句、自明な落とし所などどこにもない、ということでもある。だからといって上野や浅草の界隈でずっと昼から酒を飲んでいるわけにはいくまいと、心には知っている。わかっているのは、各人が各様の、生活態度をもっているということであり、それをひとつのスタイルたらしめていく努力のうちに、小説を書くという営みに密につながりうる何かは、たしかにあるということぎりである。
 銀座の区区の画廊をみていると、いろいろな人がいるもので、知識に汚れていないようなひとにかぎって、すっとすばらしい絵画のコレクションを形成させていて、唖然とさせられたりする。一体このひとはどういうことになっているのだろう、と、天性の感覚を前にうたれては、天性のものはマネできない、しかし天性のひとを前に学ばなければそれは本当のまなびではない、とうろたえる羽目になったり、する。美術館の学芸員の講演や、美術の見方、などという安易な新書本のたぐいでなにかを知るのが、はたしてまじめな営みであったのか、たしかにまじめなのには間違いはないのであったが、はたしてまじめに遊ぶことの前に、それがどこまで有効な手札であったのか、それは怪しい。げんに、エルメスというとみんなバカにするけれども、メゾン・エルメスの展示はたまに大当たりを、放つしねぇ……。結局、つかえる手札をつかえるように動員して、いろいろと動いているほかもないのだけれども。

 芸術の道に志す以上、もちろん誰の場合にも自分の心持はあるわけであるが、いろいろなものに邪魔をされてそれが容易に発見できないということがある。同時に、日本人として先祖以来の国土に育ち、長い伝統の下に、誰もが皆どこかに日本人としてのエスプリを持っているに相違ないにも拘らず、自分でそれを認めないという場合もある。しかし美術市場の名作のどの一つを取って見ても、それが時代精神の反映でないものはない事実を考えて見れば、いま日本人としてのエスプリが、時局確認の上に立ち日本民族としての自覚の上にあらねばならぬことは余りにも自明である。懐疑と低徊からは何ものも生み出し得ない。問題は虚心に純真に、物を正視することに尽きる。私は今の若い作家に、切にこのことを言って置きたいのである。
 自分の周囲の暗雲を払って、本当の自分を発見するということは、仏教などでもそれを最も大切なことに見ている。仏教で「自性円満」と言っているが、如何に立派な教理を聴いても自己をはっきり認識できなければ何にもならないことを教えるのである。

画室の言葉

画室の言葉

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 と、宗教の話もでてきてしまったことだし、ここいらで説教はよしてもらおう。この文章には国土や伝統や日本人といったもの、インターテクスチュアリティを強調をするひとまずのナショナリズムの香りがしているが、どうあれ、このような文章が書かれなければならない、そのことに芸術、表現することのむずかしさはある。このような教説は、世にありふれたものかもしれないが、いっぽうで私はこの歳になって、ようやく、皆が皆なぜ、このようにしておなじようなことを言うのかがわかってきた、とおもう。そして、「虚心に純真に、物を正視すること」、これでは物書きには、わかりはしない、と。またあらゆる「エスプリ」がこんにちでは無効となっているのだ、と反発をすることも可能であっただろう。それにもかかわらず、私はこうした言い様に一定の敬意を払っていたいのだ。どうであれ教示をするという形式のなかでしか、創作論とは書かれえないような気も、する、それは愛のある試みであるという感覚も私はもつのである。道に、迷いがあり、自分の表現をつかむことのできないものに向けて、この文章は書かれてある。そしてそれは、その迷いが迷いですらなく諦められたり、ずっとみつめ続けていた「物」がありふれたものとなって、世界がくすみ、どうしようもなく諦めている時、ふっと肩の力の抜けた時にこそ、虚心さ純真さ、円満さが訪れてくるのだという、私なりの創作論を喚起さすのである。

「火を、硬い物質を、力を愛する必要」――バシュラール「夢みる権利」

 われながら、情けないほどの下積み経験をもって文章を書き続けてひとつの岬にたっておもうのは、自分のもっているスタイルで自分のできることが、いかに貧困であるのか、ということだ。それは、自分ができることに達した時に、ひとは自分のできる限界を知り、ゆえに限界を超える自分をねがう、否、願うまでもなくほとんど信じることができているからそこにいるのだ、もっと大きな達成をついぞ自分はかちえると、信じているがゆえに私は、この岬のうえに立って、時化か、凪かもしれぬ、波音を一望のもとにみおろしている。

 鉄の宇宙は手の届く世界ではない。そこに近づくためには、火を、硬い物質を、力を愛する必要がある。人はただ、根気よく訓練を重ねた創造的行為を通じてのみその世界を知るのだ。
   バシュラール「夢みる権利」渋沢孝輔訳

 いつも一日の終わりを、一日がはじまるごと、遠く、遠いことだとおもって烟草とコーヒーを用意をする。濃密なコーヒーのなかに一日の終わりのみえることがなく、ただはじまりと、途中の音だけが鳴り響く。それはタイプの音だ。タイプをしはじめる音と、タイプをしては語につまって、烟草とコーヒーとをのみにむかう音だ。縁台にコーヒーをすするあいだにも、するすると世界は手許から抜けていってしまう、そんな感覚がし、そしてそれは錯覚などではない。逃して来たそいつを捕まえて、今度こそはものにしなければならないと、私は駆られる。今のこの行為が、バカのブログを書くバカの手つきとは異なり、文章をただひたすらに追いかける、根気のいる訓練の延長線上にあると、かたくなに信じて。
 妄想患者が池に放り込んだ、石のように信じて。

「土地っ子としてのわたしと、ストレンジャーとしてのわたし」――池田弥三郎「銀座十二章」

 食べもの屋を食べあるいていると、悲しい、悲しい、ほんとうにやるせなく悲しくて痛い、身体の痛みとなった瞬間には即座に記憶の痛みとなる、痛みに出くわすことになる。と、そう、書き出してしまえば私の場合に銀座のラーメン店であったり(あのイタリアン出身の店主がつくる酒粕ラーメン、旨かったなァ……)、歌舞伎座の真横に位置をしていたフレンチであったり(食後のコーヒーまでもが絶品だったのだ。きっときっと、これはもう絶対に、なくなるべきでは、なかったのだ)、有楽町の交通会館のなかの炒飯(あの黄金の炒飯にまさる炒飯にまだ出会えていない)、とか、そういう、豪奢というほどのものでもない、つましい田舎者なりの、記憶になってしまうのだけれども……。
 「よし田」が移転することになって、あれ、どうしてしまったのだろう、と沈思にふけって酒どころの話では、なくなったり。

 銀座の飲食店についての、そうした記憶をたどってゆくと、わたしと銀座との関係が、二つあることに気がつく。それは、銀座に住んでいるわたしとの関係と、もう一つは、盛り場としての銀座へ出入りをする、客としてのわたしとの関係である。つまり、土地っ子としてのわたしと、ストレンジャーとしてのわたしという、わたしの側の二側面が、銀座の飲食店の思い出に、多少、普通の人と違った起伏を与えているように思う。
   池田弥三郎「銀座十二章」

 まあ、わかる、わかるということにしなきゃ田舎者としてはおさまりがつかない災害になっちゃうから、わかる。
 けども初めての飲食店に入るっていうのは旅客として、どうあれ、入るというのだともおもう。それはふとすれちがった、すれちがってそれきりだったはずの路地の店に何らかの理由をもって入る、その瞬間の諦めと一抹の期待。その期待に応えてくれた時の、にぎやかなることと、ふだんと同じはずの銘柄の酒の効験の、はなばなしきこと。ひとが、料理人たちがいるということ、その厚みを記憶にきざみたいから、だから飲食店をつい、まわってしまう、一軒の店屋に通い続けるのとはちがう軟派さをもっていてしまう。
 嫌になるのだ、田舎にすんでいると、田舎のまずいメシを、地方名士きどりでSNSなんかに、あげているやつがいて……。それもそれであそびであり、私たちはあそぶ為に生きているのだったけれども、あそびにも高い低いがあるのであって……と、言うと、だから、だからになるからいいのだけれども。

「ことなる心地するにつけても、ただ物のみおぼゆ」――スタンダール「エゴチスムの回想」、ブルーハーブ、建立門院右京大夫、ジャンケレヴィッチ「還らぬ時と郷愁」

 ペンを手にして、自分を反省したら、なにか確かなもの、わたしにとってのちまで真実であるようなものに達するかどうか。一八三五年ごろ、まだ生きているとして、読みかえしたら、これから書こうとしていることを、自分ながらどう思うだろう。これまでのわたしの著書にたいする気持と同じだろうか。ほかに読むものがなくて自分の本を読みかえすときは、つくづくやりきれない気持になる。
   スタンダール「エゴチスムの回想」小林正訳

 ここまで続けてみて初めて 消えてった奴等なりのワケも見えて
 店閉めて ネクタイ締めて 頑張ってる奴に半端な音は聴かせられねえ
 趣味で和気あいあいな奴等は 俺等とは区別させてもらうぜ すまんが
 悪く思うなよ 腹違いのBROTHER これがアンダーグラウンドVSアマチュアさ
    THA BLUE HERB「介錯」

THA BLUE HERB

THA BLUE HERB

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 塾講師やコンサルタントでもあるまいし、夢という言葉を安易につかう人間に、ろくなのはいないと知っていた。じつは落とし所などというものは、夢を追う人間にはみえてなどいないのであって、但し、自分は賞とかデビューするとかいったことは関係ないから、とやっているやつはどうしようもないし、デビューがしたいんです、お金もちになりたいのです、と世間しらずをやっているやつも、どうしようもない、嘘っぱちなのであって、では一体なにが嘘っぱちではなく世間しらずではない本物なのか、などということは、文章などという吹けば飛ぶような代物をあつかう、文章家などという虚業を前にして、のべつだれの耳にもとおる講釈などの、できようもないのであった。
 冬眠をしたように全身に力の入らない時であれ、身体のなかをべつの生き物が逞しさを発揮をして動くことを、感じたことはままあったのだった。繁華街で酒に溺れている時であれ、仲間のための借財に追われて自分はなにをやっているのだろう、とあっけにとられている時であれ、長い年を経て不惑を迎えた今であれ、どうであれ、なにかが残ってしまった、冬眠のなかでも神経を働かせている生き物を飼っていてしまう、その生き物が私なのか私がその生き物であったのか、区別や、境界線をひくことが、自明に過ぎて煩雑になるまでに。答えなどというものはいつも一つの透徹のなかにあり、いかに小説を書きたくない、とうなされて起きた日も、ワープロの画面と向かい合うとタイプする指先はおやみなく打鍵を続け、時折、私がたてるその音を私が、耳を澄ませて聞いている。もちろん、いつも、起こっていることはといえば文字が吐き出されていくそれだけのことだった。

 ひきのけて空をみあげたれば、ことに晴れてあさぎ色なるに、光ことごとしき星の、大きなるが、むらもなく出でたる、なのめならず面白く、縹の紙に、箔をうち散らしたるに似たり。こよい、はじめて見そめたる心地す。さきざきも星月夜見馴れたることなれど、これは折からにや、ことなる心地するにつけても、ただ物のみおぼゆ。
 月をこそ 眺めなれしか 星の夜の 深きあはれは 今宵知りぬる
   建立門院右京大夫

 むかしの話など、どうだっていい。現代において、小説を書き、新人賞なぞというものに投稿をする営みが、どれだけおろかしいことかというに、「夢」などという歯が浮き過ぎて総入れ歯になるような美辞をつかっていられる、わけもない。権威と制度がありしっかりと構造化されたシステムのなかで、事業となった文学に参加をして、文学全集の編集委員となり、知識人の席を奪い合い、新人賞の選考委員となって銭をかせぐ、そうした人種にわざわざ、なりたいというのであったのならば、それを変わり者や本好きという枠組みにだけおさめておくのは、おかしい、根っから腐りきった奴らが私たちなのではなかったか。すくなくとも、そのような惨憺たる現状を知りもせずに、小説を書くのは楽しい、だのと言い、言葉の力がどう、だのと唾をとばし、それらしい格好をして原稿をタイプする人間の顔を、私はみたくはない。見飽きたからだ。文学まわりのなにかを追い求め続けて、よくて俳句趣味にでも落ち着いて、文学館の講演会にくりだしているような高齢者たちの群れをみるまでもなく、神保町の喫茶店で人相見をしているまでもなく、見飽きているのだ、芸術家たちを。そしてそのくせ、芸術などというものが、この世に、滅多に生起しはしない現実を、なによりもみている、みつめ続けているからだ。たとえばこのキーを打鍵をするこの指先にすら。
 なぜ書いている? なぜ書くことが私の身に残った? いつでもみえている。だがそれを言葉にしようとすると、あまりにも明るすぎてみえなくなるだけだ。

 時による消耗と忘却に耐え、物理的な抹消にも暴力による消却にも生き延び、霧散させることも溶解することもできないこの取り消せないものに、なんという名を与えるべきだろう。この引き抜くことも根絶することもできないもの、まったく常軌を逸した頑強な生命をもったこの抹消できないもの、それはただたんに実存に対立する裸の本質なのだろうか。それは触知できず、しかも、われわれの自由に抵抗する宿命の枝だ。
   V・ジャンケレヴィッチ「還らぬ時と郷愁」仲澤紀雄訳

 

 厚い層をともない心臓の真ん中、ごろりと埋めこまれたたった一個の事実。それはただモノといったほうが近いようだ。

「言語をうっちゃってしまい、物をそっくりそのまま使って話しを交そうとするあの連中」――ゲイブリエル・ジョンポヴィッチ「書くことと肉体」、ヤコブソン「音と意味についての六章」、V.K.ジュラヴリョフ「言語学は何の役に立つか」

 ミハイル・バフチンその人というよりも、バフチンの提唱をする「ポリフォニー」の概念にひたすらに興味があって、それはバフチンという提唱者が邪魔におもわれるまでに、拘泥をしてしまう、そうした私の興味のあり方をしているのであった。
 音楽を骨董品のように蒐集をして聴く習慣は、MD(いまとなっては現物をみせてもフロッピーディスクと見まがわれてもしかたのない代物であるが)でIDMを取り寄せて聴くことから、明確に、はじまった。デジタルの音楽がデジタルの海、インターネットなどというものに溺れていたわけではなく、まだモノのかたちを一回的にとっていた頃の話であり、当然、それは今となっては希有なことであった、信じがたいことであったと、思い返されるのであったけれども。

 もと銀行員であったT・S・エリオットは、シニックというか、いかにも文芸評論家でござい、そしてもと銀行員でござい、という調子の鹿爪らしい、正統的に堅苦しい文章を書いたが(「伝統と個人の才能」「宗教と文学」などのことを指す)、その裏腹として、ピーター・アクロイドの伝記によると、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などを聴いた時に、リズムに乗りまくっていたのだそうな。エズラ・パウンドと書簡でふざけ合い、「キャッツ」をものする一面もたしかにあったわけだ。
 私がストラヴィンスキーが語った言葉で、好きなものがある。

 ストラヴィンスキーは晩年のあるインタヴューでこのエピソードを思い出しています。「いま、言葉を信じられないとおっしゃったのはどういう意味なんですか? 言葉の不正確さという問題なんでしょうか?」と訊くインタヴュアに対し、ストラヴィンスキーは「言葉は不正確というよりはむしろ比喩的(メタフォリカル)なものなのだ」と答え、さらにこう付け加えるのです。「ときどきガリヴァーが「ラピュタ島への航海」で出くわした老人たちのような気分になることがあってね。言語をうっちゃってしまい、物をそっくりそのまま使って話しを交そうとするあの連中のね」
   ゲイブリエル・ジョンポヴィッチ「書くことと肉体」秋山嘉訳

 じっさい、「モノローグ」ならざる「ポリフォニー」という音のアナロジーによってあらゆるテクストを読んでいく、そのつもりで読むことをしていくと、文章とははたして音であるのか、文章というものであったのか、境界線は次第に曖昧になっていくのを、私は感じる。言葉を言葉として忠実に読むほどに、それは音に接近をしていくのではなかったか。本を読みながら、頭のなかに起こる黙読の言葉とは、なぞり、たどられていく音の線のことであり、さらにはテクストの全体の印象ごときものを担保しているのも、活字のまとまりなどといった即物的なものなどではなく、それが柔らかいのか、ハードなのか、ソリッドなのかファジーなのか、といった、音の像、といったほうが近しいのではなかったか。だとしたのならば「ポリフォニー」という言葉は、ドストエフスキーの小説という難題の前をした苦し紛れであるにせよなんにせよ、発明されるべくして発明をされたのにちがいもなかったかもしれない。

 言語のなかにおける音素の働きは、われわれを結論に導く現象である。音素は機能する、ゆえにergo、音素は存在するのだ。こうした存在様式については、あまりにも議論がおこなわれすぎた。単に音素だけでなく、あらゆる言語価値と、そしてまたあらゆる価値一般に関係のあるこの問題は、明らかに、音韻論の、そしてまた言語学全体の射程外にあるのであって、これは哲学、とりわけ、存在について思弁する存在論にゆだねるほうがより賢明というものであろう。言語学者に課せられる任務は、音素の徹底した分析、その構造の体系的研究である。
   ロマーン・ヤーコブソン「音と意味についての六章」花輪光訳

 というところだけを切り抜くと(もちろん切り抜いてしまってはいけないのだろうが)、いかにもポリフォニーという概念と釣り合いがとれている、その諦めというか、ひとまずの「射程外」からの概念、意地悪くいってドストエフスキーどころか、ディケンズやスタンダールの小説でもいいのだが、分析の手を加えようとして、挫折をしいられた概念として「ポリフォニー」があるのだと、腑に落ちるところがある。または、小林秀雄が「無常という事」でいう、あらゆる批判を逃れて不動のもの、としての文学作品、まさしく交響曲そのものの、天才たちの作り出した文学を前に、ひとまずは音がある、そのような交響があるのだと、言うほかなくして、両手を上げているほかないカノンというものを、読書家たちはさまざまに読んできたのであったから。そしてポリフォニーにせよ、ヤコブソンにせよ、ドストエフスキーを産んだロシアから、生まれたのである。

 ヤコブソンの国際会議における発表と講義には、大勢の人が詰め掛けました。幸い私も彼の発表を聞いたり、会話を交わすことができました。ヤコブソンはいろいろな言語でしゃべっていましたが、そこには常に「ロシア語の基層」が感じられました。彼はフォルトゥナートフの「フォルマリズム」派を熱心に宣伝していましたが、ボードワン学派とソシュール学派との共通性も探し求めていました。そして、最後には、つまりアメリカ在住の時期には、アメリカ言語学の創設者たち(L・ブルームフィールド、E・サピアなど)の考えとも共通性を探し求めていましたが、彼は、自分が「ロシアの言語学者」であると意識していました(このことは、彼の墓にも刻まれています)。
   V.K.ジュラヴリョフ「言語学は何の役に立つか」山崎紀美子訳

「なんか知っちゃった」――リリー・フランキー/ナンシー関「小さなスナック」

 これはのっけから余談だが、萩原健太という、日本でビーチボーイズでありブライアン・ウィルソンを聴いている人士であるのならば、まずゆかりがあるであろう音楽評論家の名前が、ナンシー関の口から出てきて、驚いたのであった。

 ナンシー (略)高校生の頃、ツイストやサザンとかのロゴマークを消してゴムで彫るのが抜群にうまかったんですよ、私。みんな消しゴム持って頼みに来て。で、大学入ってからも暇つぶしの一環で彫ってて、たまたま雑誌の人の目にとまった。「ホットドッグ・プレス」で萩原健太さんがやってたコラムページのイラストが初めてギャラをもらった仕事で、そのあと読者投稿ページで私の新しいコーナーを作るから、呼び込みの原稿を書けって200字詰めの原稿用紙と鉛筆を渡されて。わからないままに悩んで書いて、1回も改行してなかったな。
 リリー お経みたいだ(笑)。
   ナンシー関/リリー・フランキー「小さなスナック」

 雑司ヶ谷や、贔屓の作家のいる小平の霊園も、文学館あるきも、美術館めぐりも飽きてしまってからのちも、消費することは快楽であることをなかなか、しぶとく、よしてはくれないのだった。あるいはもはや消費は快楽などではないのかもしれなかった。味のしないガムを、ガムとしてかみ続ける悪癖が身についているだけのことなのかもしれなかったが、とにかく、そのようにして私は銀座の行きつけのフレンチでパナッシェを、新宿駅構内の「ベルク」で朝にはコーヒーを、昼から以降はビールをあおっては、シネスイッチ銀座や武蔵野館といった映画館がよいを、止すことができないのだった。退屈なのは知っているんだけれどもね。けれどもその退屈さに期待をしてしまうのだったし、それらの映画館に通うこと自体に、えも言い知れぬ甘美さが、すくなくとも甘美な香りの残り香を、まだ鼻先に、匂っていられる自分を、知っていた。
 子どものころから日本文学全集を読んでいたせいで、自意識まわりの文学というやつが、嫌いであった。もっといえば日本文学全体が嫌いなのであろうが、太宰治や、坂口安吾の女々しさというやつがあり、自分も読書をしているからというので、ひとにそのような女々しさがあるかのごとくに思われること、思われぬようにするのにはどうしたものか、については、ひとしきり考えさせられてきた時期が、二十代のころにはあったような気もする。結局は、その同時期に、東京の街あるきをして、自分なりの酒の飲み方を知っていったことが、もっともよいその回答であったのだったけれども。
 やっぱり人間、ある程度は、俗っぽくなければイヤだ。脂ぎった中華飯店のメニューみたいに、べったりとした、だらしなさをどこかにみせられなければ、イヤなのだ。もっとも、しょうもないだけじゃあ、どうしようもない。みっともないことに一抹の警戒心をもてないようでは致し方なく、それこそ――あまり女々しいという言葉を使いすぎていて、いかにも当世風とは言い難いが――女子生徒たちが集団で騒いでいるような、無内容な俗っぽさでは、救いがないのだけれども。

 ナンシー 話変わるけど、この間、友人と食事してて、気がついたら私抜かしてみんな左利きだった。なんか妙な感じだったなあ。
 リリー へえ。女の人の左利きを発見すると、ちょっと興味が湧くんですよ俺。で、それってもう異性としての興味なんです。
 ナンシー いるぞ、いっぱい私の周りに(笑)。
 リリー いや、最初から箸を左手で持ってれば、別になんとも感じないと思うんですよ。だけど、ふとした瞬間に、あれ、この人いま左で何かをしてるなと思うと、じつは私左利きで、とか始まったりして、その歴史になんか、来ちゃったりするんですよね。
 ナンシー それは何ですかね。
 リリー なんか知っちゃった、みたいなことなんじゃないですかね、くだらないけど(笑)。
   同上

 左利きのくだりは男にはわかる、すくなくとも私にはわかることであるが、「なんか知っちゃった」に私は感心をしてしまう。そのセンテンスに。すとんと腑に落ちるフレーズに。
 四文屋で話しているような(というと本の標題が「小さなスナック」であるからそのままなのだけれども)、ほどけた雰囲気、くつろいだ佇まいのなかから、不意に覗かせる、自己への省察が、――というと、なにか高尚に過ぎてちがってしまうが、要は味が、コクが、そのひとの顔がふと、あらわれる瞬間。くすんだ焼き鳥の匂いとかに、たちまち消されていってしまって、そしてどうということもなく過ぎ去っていく物言いのなかに、きらきらとしたものを拾い集めることが、好きだ。それはほぼひとと酔うことが好き、ということと同義なのであっただろうが。

「抒情的な自由詩系統の作風は流行遅れになりかかって」――伊藤整「若い詩人の肖像」、田中冬二「子の山行の思い出」

 親しく読んできたというのにはほど遠いのだったが、田中冬二は地元の詩人であったから、地元の文学館の展示などにふれて、その作品に接する機会をもってきた。そのようにかすかなかたちでふれ、親しく読んできたわけではなかったぶん、印象はいまでも記憶のなかに鮮烈なひとつとなってとどまっており、読む機会をもたねばならないと、時折、迫られる。あのまどやかで、陶然とした読み心地はなんであったのか。モダニズムの影響を漂わせながら、木訥として優しげな、香るような穏やかな詩文の成り立ち。
 そのひとつの理由を、「四季」の伊藤整の追悼号に寄稿された田中冬二の、セルパンの会の山行の文章を読んで、知ったつもりになることができた。ただいっしょに歩いたりするというだけならば、宿敵である小林秀雄とも伊藤整は、同道をしていたりもするのだったが。ともかく、伊藤整と田中冬二。あまり、相性が良くもおもわれない二人であると、私が感得をするのは、「若い詩人の肖像」の作中に、モダニズム系統の詩人たちについて以下のように言及されてある箇所があるためだ。若書きの随筆中にはよくあるのだが、小説のなかで(しかも円熟期に入った彼の文章で)、このように辛辣になにかを語る伊藤整というのも、珍しい。

 大正の末年のこの一二年、若い詩人たちの詩の書き方は、目立って変って来ていた。草野心平の「冬眠●」は例外だとしても、平戸廉吉は蛾の動く気配を全部ローマ字で現わし、Passasssssushというような行が二三十行も続く作品を書いて「未来派」と称していた。しかし平戸はその頃死んで、それが最後の作品なのだから、多分それが本気なので、ハッタリではあるまい。萩原恭次郎や岡本潤などはアナーキストらしく、歌うというよりは、詩で人を脅やかすような絶叫するような罵るような効果を出そうとしていた。私のやって来た抒情的な自由詩系統の作風は流行遅れになりかかっていた。若し詩壇というものが、ハッタリや絶叫がものを言い、情実の横行する場所であれば、私のセンチメンタルな抒情詩は片隅に押しやられて、日の目も見られないだろう。
 私はその時の詩壇なるものが分るに従って、いよいよ絶望し、急速に自信を失った。私には、単純で透明な、自然と人間の混り合った詩を好む性質があった。
   伊藤整「若い詩人の肖像」

 たしかに、伊藤整の「雪明かりの路」「冬夜」は、いまだ藤村の香りが残存をしている。と同時に、強くおもうのは、伊藤整がいずれ評論家になるような書き手であった、ということであり、そして彼の評論家としての行き方が、巷にはびこるさまざまな偏りのなかからではなく、独特のバランス感覚のなかから書いた評論家であった、ということである。それこそ「若い詩人の肖像」のなかには、おなじ学校にまなんだ小林多喜二に対する、独特の突き放したような見方、警戒心が表現されているが、プロレタリアートのみならず、あらゆるイズムに対して、伊藤整は、警戒的であり、その警戒心と、若さとがあいまったなかで「新心理主義」が生まれたのだと取ることができる。未来派も、ダダイズムも、あるいは「アナーキズム」も、それに染まることをよしとしない営為として詩作はあるのであって、透明にそれらをかわし続けていくことに、書き手の知的営為が辿り着く信念があったように、私はおもう。
 それはともかくとして、同時代人の書くモダニズム詩に、伊藤整はかくのごとき態度をとって臨んでいたわけである。そして「若い詩人の肖像」でも主要な登場人物として現われる川崎昇とともに、郡山市の駅前の鉄道に、工場の煙に、驚きをもって動揺をしながら、モダニズムに全面的な降伏をしはしなかった田中冬二も山行をする。なにか、絵としては、しっくりと来るのだったかもしれない。

 その日は七月七日の七夕の日であった。
 池袋駅七時集合に遅れた伊藤さんは川崎昇さん等七八名と共に、後続組として伊豆岳は割愛し子の権現へ直行し、そこで伊豆岳からやって来る一行を待ち受けることにした。あとできいた話だが、子の権現へ着いた伊藤さん達は、その待ち時間を入浴したりビールを飲んだり、うとうとと昼寝をしたりしてのんびりして居られたとのことであった。予定通りのコースを辿った私達の一行が、途中何とか言う峠を越えて子の権現へ達したのは二時頃であった。
 子の権現では恒例の御高盛とか杉盛とか言って、高杯に山盛にした飯と精進料理が供せられた。その高杯に盛られた飯の量と言ったら、見ただけで辟易してしまうようなものだ。
 殆どの人が半分食べあとはのこしてしまったのである。ところが伊藤さんは敢然とそれを見事平らげられたのである。その事を前記の一橋新聞に、自分は意地で食べたと書いて居られる。この子の山行に私は往きは伊藤さんとは別であったが、帰りは新宿までいっしょであった。八時頃新宿駅へ着くと、近くのビーヤホールで伊藤さん春山さん川崎さん等六七人でビールを飲んで別れた。
 あれからもう三十五年の歳月が経っている。
 セルパンもない。みんな昔のことになってしまった。それにしてもあの子の山行後の三十有余年の間に、伊藤さんは詩に小説に評論に翻訳にすばらしい業績をのこされたのである。
   田中冬二「子の山行の思い出」

青い夜道の詩人

「お前はお前でそこで枯れるのだ」――ヘッセ「庭仕事の愉しみ」、蓮池歓一「伊藤整―文学と生活の断面―」

 アル中の父親とスキゾの母親の実家からはなれ、一軒家を借りて、凪のような平静の日々を送っている。実際には凪が凪いでいるほどに、大時化である。書かなければならない文章に追われては、自分の文章をつかまえて、のくりかえしで一日、一日をみっちりと埋め合わせていくうちに、日々はあっというまに過ぎてゆく。幹線道路を逸れた先の住宅地に位置する、4DKの一軒家には庭がついていて、執筆の合間、合間に烟草をのむために縁台に坐しては、夏の陽射しのふりそそぐ庭、なるもの、をみることになる。硬い土を耕しては肥料を撒き、腐葉土を求めてきて、ひとまずはと植えた日々草の機嫌をうかがう。

 庭をもつ人にとって、今はいろいろと春の仕事のことを考えなくてはならない時期である。そこで私はからっぽの花壇のあいだの細道を思案にふけりながら歩いて行く。道の北側の緑にはまだ黄ばんだ雪がほんの少し残り、全然春の気配も見えない。けれど草原では、小川の岸や、暖かい急斜面の葡萄畑の緑に、早くもさまざまなみどりの生命が芽を出している。初めて咲いた黄色い花も、もう控えめながら陽気な活力にあふれて草の中から顔を出し、ぱっちりと見開いた子どもの目で、春への期待にあふれた静かな世界を見つめている。が、庭ではユキワリソウのほかはまだ何もかも眠っている。この地方では春とはいえ、ほとんど何も生えていない。それで裸の苗床は、手入れされ、種が蒔かれるのを辛抱強く待っている。
   ヘルマン・ヘッセ「庭仕事の愉しみ」岡田朝雄訳

 訳文は充分に健闘をしているし、文藻にも富む文章だが、この文章に、控えめにいってなにか空々しいものを私は感じとっていてしまう。それはそもそもが「庭仕事」、ガーデニングといったものに私がさして興味がない、どころかほとんど本能的な、反発を覚えてしまっているからにほかならない。それは、こぎれいな趣味に対する反発というのもあれば、今、ひとりの生活において自然というものを扱うことのナンセンスさ、といおうか、仕事ならざる営みとして土を耕すという営みによって、人間性のごときものを涵養しようとする、できると思いなしているかのごときその態度そのものに、疑義を差し挟まざるをえない、ということである。あるいは、単純にこの文章についていえば、ヘッセはヘッセだな、と言ってしまってはいけないことを思ってしまう、ただそれだけのことなのであっただろうが。
 花の話を聞くたびに、思い返されるエピソードがある。いつものように長くなるが、ここに私はそれを引用しよう。

 彼のお父さんと云ふ人は、俳句も作るし、園芸等にも趣味のある人だつたらしく、家のまはり等美しくバラで飾られてゐたりして、「海の見える町」に書いてある「垣根のバラを小樽の町に売りに出る」話が、その垣のバラなのであつた。
 この俳句等作つたといふ、文学的方面が兄の整の方に伝り、園芸方面の趣味は弟の博の方に伝つたもののやうである。弟は後年、屋敷のまはりに花を作つて小樽に花を出荷し、梨を作り、広く葡萄の栽培もすると云つた方面に向つたが、多少の文学的傾向もあつて、北海道の場所がらロシア語などもやつた事があり、私も小樽の本屋等案内してもらつた事もあつた。
 これに反して兄の方は全然趣味が異つてゐたやうである。私は田舎を離れて東京にゐても、土いぢりが忘れられない方だが、夏の日など近くの伊藤家を訪ねると、時によそからもらつたりして植木鉢等が二階の窓下の屋根の上に置いてある事がある。見ると大概萎れかゝつてゐる事が多い。
「おい植木が枯れさうだよ」と注意すると、
「その内に雨がふるだらうと思つてるんだがね」
 と云つた返事である。どうかすると、仕方がないと、云つたやうに、客に出した土瓶の残り茶等をかける事もあつたやうだが、大方屋根の鉢物は枯れるのが普通のやうであつた。
「彼には人間の事しか興味がないのだらうか」と怪しみ、大いに植木に同情したものであるが、それに反して人間の心理の動きは、彼はその頃から求めて飽く事を知らなかつた。心理その物といふよりも、その頃のは心理の追求のしかた、むしろその表現のしかたに興味の中心が向いてゐた時代であつたやうである。
 今になつて私は思ふのだが、これらの事は単純にその人個人の趣味では片付かない事のやうである。それは北国の厳しい自然の中で育つた人として考へなければ理解出来ないので、あまりに激しい自然の中で、人は「自然は自然のまゝに委せる外はない。その代り人間は人間の生きる事にだけひたむきになるのだ」と、さう云つた考へが起るのである。(中略)あの最後の一線で割切つた生活態度の現れこそが、あの一鉢の植木の生命に向けられてゐたのだ、「お前はお前でそこで枯れるのだ、仕方がない、助けてやりたいが、俺にはそのゆとりがないと」、私はその事に思ひ到らなければならなかつた。それにくらべると九州人の私等は、それこそ実にずるずるべたべたなのである。
   蓮池歓一「伊藤整―文学と生活の断面―」

 伊藤整の私生活は冷たいものだった。家庭のなかではまったくのダンマリ、妻にも、子どもたちにもなんの話もせずに、たまに口を開いたかとおもえばドスの効いた声で注意をするようなことをしか話さない。銀座のスナックに愛人をつくり、家人に読み取られぬように英字でその愛人との交流を日記に書きつづっていたのだったから、当然、夫婦の仲は円満とはとても言えない。息子の伊藤礼の文章にというよりは、娘の伊藤マリ子の文章に、事情は適切な質感をもって垣間見ることができる。

 この伊藤整の古くからの友人の筆致は、親密さと適切な距離感とが相まっていて、伊藤整の読者にとっては好感がもてるそれである。北海道的性格というのは、それ自体で非常に興味深く、それが謎であるために深く詮索をすることがむずかしいのであったが、ひとまずは、ここでは「若い詩人の肖像」や「氾濫」の著者である伊藤整が、その作品に相応の、個人主義者であったということが重要であったはずだ。そのスタイルというのでもない、他人を他人として截然として区別をするという意志の力や、ただの距離感の踏まえ方によっては身につけられない、盤石の、異様な孤影があったがこそ、漱石の「明暗」を踏襲した晩年附近の生の三部作は書かれた。他者を、そして自己をすらも他者のごとくに突き放す姿勢があるがこそ、「心理」なぞというあるきなきかも底知れない、底流のようななにかを、捉えうる。「自然は自然のまゝに委せる外はない。その代り人間は人間の生きる事にだけひたむきになるのだ」。個人主義者が植物ぎらいとなる他ないのか、どうかは擱くとして、その個人主義の片鱗を垣間見たという意味合いであるとしたのならば、この友人の指摘は、正しいということになる。依然、「北海道的性格」と同様に個人主義の成り立ちも、謎ではあるのだが。

「飲食店というものは、なにを売ってもよいのだ」――茂出木心護「洋食や」

 私のラーメンの食べ歩きもなにか得体のしれぬカルマとなっていっていて、都内だけで二百店から三百店へとゆるやかにではあるが、食べついでいる。もともとは文章のために、銀座でミシュランをとったりしていたラーメン店をひたすら食べてみよう、ということに端を発しているのだったが、そのころに食べた篝も、むぎとオリーブも、麺処伊藤も、いまだに生きている(酒粕ラーメンを提供する銀座の「風見」が閉店した時に、私は、泣いた)、ラーメン店というのは庶民の生活に密着したものでありながらも、しかし、文化たりえないところがある。蕎麦は福田恒存を引用するまでもなく立派な文化であり、カレーも神保町の欧風カレーにせよキッチン南海にせよ、あるいは新宿のガンジーにせよ、どうであれ立派な文化である。文化というのはここではひとまずは、つまり、街を形成させ、その街にくらしあそぶ人びとの生活の骨格、街あるきのスタイルを、形成させる、一言で済ませてひとを涵養するなにがしかの力の作用のことだ。とんかつも無論。寿司についてはあまり大口をたたけないが、あれは面倒なもので、へたに寿司をかじるくらいならば、むかし立川談志が言っていたふうに「寿司なんざ、回転寿司でいいンです」とやっていたほうが、余程、イキになるところがあるから、むつかしい(私も財布の関係から、回転寿司と開き直ることにしている。回転寿司でいいンです、に、これだ、とおもった口である)。

 ラーメンは、一応、大勝軒がどうとか、青葉がどう、麺処ほん田というのがあって、といった歴史はあるのだけれども、ね。やはり空間感とかに重きが置かれていない、器がどうとかいったものが不随してこないから、いかに競争が激化をしても、文化の香りがそこからあまり、漂うことはないのだとおもう(どうであれ、文化なんて文化包丁みてーなもんだ、ということにして、ラーメンを私は食べ続けるのであったが)。まあ、面倒なことはなし、ということだ。
「たいめいけん」がラーメンを提供している、そもそもしていて、今も続いている、ということを、創業者の「洋食や」で読んで、知る。

 なん年も前からやりたくってしようのないラーメンやを、調理場の一部を改造してスタンドを作りはじめました。女房は賛成でなく、洋食やが「そば」を売るなんてみっともない、と言います。私は「飲食店というものは、なにを売ってもよいのだ。それが美味しく安ければ」とやりあいます。
 ほんとうのことをいいますと、私はラーメンが好きで三日食べなきゃ変になるほどです。それで、どこかに美味しいところがないかと探すくらいなら、自分ではじめようとやった仕事でした。
 カウンターを開店して一年、お客様も日増しにふえ、洋風のラーメンはおもしろい、たいめいけんのラーメンなら美味しいだろう、と評判も立ち、「今日も私が一番だろう。この時間になると、くせがついて、足が自然に向いてくる」とくちあけに必ずこられるお客様もあります。豚と鶏がらでだしをとり、じゃがいもを入れるところがみそで、一日分売ってしまったら閉店にします。
茂出木心護「洋食や」

 著者の書き言葉はこれぞ東京のひとという、飾らない、素敵な文章であるが、今の「たいめいけん」の凋落を知っている身としては(失礼)、どうも、食指が動かない。たいめいけんでラーメン。「やりあう」ことをする、その料理人としての言い分はしごく真っ当であり、納得もできるのだけれども、なにか、壮大な語義矛盾をふくんでいるように私が感じてしまうのは、私がラーメンを欲しながら、ラーメンになにものをもみていないからなのかもしれない。

「ほんの少しましな思想」――末永直海「百円シンガー極楽天使」、吉本ばなな「キッチン」

 あのねちっこい歌声が館内にこだましている。いちど耳に飛び込むと、うっかり踏んづけられた靴の裏のガムみたいにしつこくへばりつく、あの安い旋律。
 今日の巡業先は、埼玉県東大宮のヘルスセンター。熱唱の二人組は、私と同じプロダクションのシンガー、「健次郎&デイビッド」だ。「デュオは国境を越えた」というキャッチフレーズで昨年デビューした二十四歳の青年たちだが、日米デュオというフレコミは大嘘。アメリカ生まれのデイビッドは、じつは髪の毛を金色に脱色した不法滞在中のフィリピーノ。健次郎のほうは一応、正真正銘の日本人だが、「ハーバード大卒」という肩書きには笑った。彼が鶯谷のポン引き時代から、私はよく知っていたからだ。
   末永直海「百円シンガー極楽天使」

百円シンガー極楽天使

 この書き言葉が今、このようによぎっていったその一瞬には、この文章は美しいのである。そう。まさしく夜行電車の窓外に遠くちらつき、光る繁華街の光の粒立ちのように、それはたしかに、美しい。「埼玉県東大宮のヘルスセンター」、「不法滞在中のフィリピーノ」、「鶯谷のポン引き」、ここでは固有名詞が、「安い旋律」がこだまするばかりの退屈な日常を、なにほどか埋め合わをする、慰謝となっている。「安い旋律」の流れ続けるなかで、なんとか、みずからのいる場所を、場所たらしめなければならない、なんとか笑い飛ばさねばならない、なにほどかの語感によって、意味づけをしておかなければならない、そうでもしなければあとは空虚さが広がるばかりのようである、と……。しかし私たちは、この文章のような人物をいかに見慣れてきたことか。鶯谷に行かずとも、上野の美術館にゆく前に何人もこの文章のような人びとを数えあげ、安宿のロビーに行けば、こうした人びとが発泡酒を飲んでいるのである。

 私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
 どこのでも、どんなのでも、それが台所であれば食事を作る場所であれば私はつらくない。できれば機能的でよく使い込んであるといいと思う。乾いた清潔なふきんが何枚もあって白いタイルがぴかぴか輝く。
 ものすごく汚い台所だって、たまらなく好きだ。
 床に野菜くずが散らかっていて、スリッパの裏が真っ黒になるくらい汚いそこは、異様に広いといい。ひと冬軽く越せるような食料が並ぶ巨大な冷蔵庫がそびえ立ち、その銀の扉に私はもたれかかる。油が飛び散ったガス台や、さびのついた包丁からふと目を上げると、窓の外には淋しく星が光る。
 私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少しましな思想だと思う。
 本当に疲れ果てた時、私はよくうっとりと思う。いつか死ぬ時がきたら、台所で息絶えたい。ひとり寒いところでも、誰かがいてあたたかいところでも、私はおびえずにちゃんと見つめたい。台所なら、いいなと思う。
   吉本ばなな「キッチン」

 キッチンという生活環境のなかで改めて書き起こした時、奇妙な清潔感と静けさをたたえた空間を、心象風景として描き、そのまま「キッチン」と標題をつけた作は、どうあれ「まじめ」に書かれた、率直な作品であった。
 もちろん、なにが「淋しく星が光る」だ、「いいなと思う」だ、と今となっては(「哀しい予感」などのアプローチで書かれた小説以降、書き手の小説はことごとく破綻してゆくことになる。現在の書き手の不調は、その率直さを失ったという以上の低迷がゆえであったのだろうが)顔をしかめざるをえないが、しかしその危ういレトリックの率直さは、文章の成り立ちの率直さでもあるため、ここでは強く批難するにはあたらない。というよりも、そのいたいけさをいたいけさと捉えること、他愛なくもそこに転がる、実在をする「淋し」さが、ここにはたしかに表現をされているのだ。まさしく、枕草子までの伝統に立って、というよりは――正統な退行のかたちをたどって。
 そして、今となってはさすがにカマトトに過ぎるかもしれなかったが、この文章のような人間も、女も、私たちは見慣れているはずなのだ。長嘆息をきんじえないほどには、まったく、じつに、見慣れている――。それは表面的には正反対のようでありながらも、心根の部分において、共通したものを隠さない双方であったのだったから、当然のことであったのかもしれない。この二人は同一人物ではないにせよ、たしかに似ている。

 歌が始まる。もう逃げも隠れもできない。ノイズ混じりのささくれ立ったテープ演奏は、まるで私の人生そのもの。にせ演歌歌手・夏月リンカは満面に笑みを浮かべ、両手を広げて皆さまの前へお目見えとなった。しくじりは許されない。我々には知名度も人気もなんにもない。あるのは自己顕示欲と借金だけだ。
 穴だらけの沈没寸前フェリーにつかまりながら、こんな船に生活と命をかけている。海が時化ても、この船から離れようとはしない。私たちは、今更まっとうには生きられない。生きてはいけない。だからいつも、死にもの狂いでぶらぶらしている。
   末永直海「百円シンガー極楽天使」

 二段落めから、トンデモナイ、だれも書かない禁じ手ばかりを犯しているような文章である。命をかけている、海が時化ても、まっとうには生きられない、……。だれもそれを書こうとしても、そのまま、こうして地の文章には書き起こそうとはしない文章だ。そのまっすぐな厚顔さはたしかに美しいのではあっただろうが、技巧的ではなく、長くはもちはしない性質のものだ。そう。車窓を、遠くよぎっていく街の光、せいぜいがゆきずりの女ていどの、性質のものなのだ。