本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「人生の方は我々がどこへ行っても、いやでもついてくる」――吉田健一「続 酒肴酒」

 宇野さんの事を、人間として最も善く出来た田舎者だと僕が言ったら、あれで田舎者に徹したらモット素晴らしい人だったろう、と言った人がある。
   青山二郎「鎌倉文士骨董奇譚」

 小林秀雄一派の東京人である以外に、大した取り柄もなかったような、お前がいうな、とも勿論、おもう。

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 北海道は私にとって、謎を有した土地である。それはたとえば、伊藤整のあの書き言葉を産み出し、もうひとつは、西部邁の書き言葉(乃至「知性の構造」にみられる独特の抽象度)もそこに加えてもいいのだったかもしれないが、もちろんその端緒としてあげられるのが札幌農学校の存在であり、いったいにどうして、近代日本文学史上唯一のロマン構造を有した小説を書き得た有島武郎が、中心たる東京ではなく、北海道から出て来た、こなければならなかったのであったか……謎は、謎なのであったが、さる同時代の評論家たちが伊藤整に就いて、彼には北海道の人間としての東京へのコンプレックスがあっただろうから、というようなことを、対談で話しているのを読んだ時の、私の印象はそれはあまり、ないだろう、というものだった。すくなくとも、彼の後期の小説の重厚な構造を前に、そのようなコンプレックスなど考える必要性もない、というのは、私にとっては自明であったのである。

知性の構造 (ハルキ文庫)

 自分の田舎者であることを、なにほどか痛切に、ひりひりと「嫌だ」と感じたのは、二十歳にもみたないころにバルザックの「谷間の百合」を読んだ、その当時のことであったとおもう。実際、東北に生まれて、そだち、小説を書く、ということを振り返った時に、そこに起こるのは、静かな無力感とわが身を恥じ入るような、ある荒涼とした心境であった。ドイツ人作家でもあるまいし、中心ならざる田舎にこもらされて、一体、なにを書けるのであったか、もしも自分が東京に生まれて書いていたのならば、自分の書いていたものは今とどうちがっていたのだったか、という疑念を、私は子どものころにたえず抱いていたような気がするし、今であれいくぶんかそのケはたぶん、残っているのであって、それは、コンプレックスというのともまたちがう、純粋な好奇心から。どうあれ、その問いたては、都会への憧憬と裏表となっていたのであり、それから私は銀座を知った。新宿を知った。もちろん、神保町を知り、昔は「キッチン南海」のカツカレーばかりを食べていたのが、近ごろは欧風カレーまで、選べる身分となったわけである。とくに、銀座という街は、昔も今も私を包み込み続けてくれている、という実感がある。シネスイッチ銀座へと足をはこび、退屈をして映画を見終えて、三州屋といった定食屋であったり、よし田に入ったり、オーバカナルのパナッシェを浴びにいったりする、そのあしどり。歴史性をはらんだ固有名詞に時間をみっちりと埋め合わせをさせる、甘やかな心地を私はもう知っていた。

 あるいはそうではなくても、単純に、小林信彦や、江藤淳や、それこそ漱石を、東京人を観察するようにして読むといったしかたで、私は東京とは、東京人とはなにであるのかを、学んできた。日本文学史をたどって読んでいくということは、その営みと、切って離せない営みである。

 博物館などを廻ったりしてから、人間はバーや飲み屋に行くようになる。あるいは、必ずしもそうでなくても、そういう場合もあることをここに記して置きたい。そして博物館に行って我々が求めるものが芸術や文化や教養や知識とはきまっていないのと同様に、バーにあるものが人生だなどと、勿論、誰も思ってはいない。バーや飲み屋にはそんなものよりももっと貴重な酒があって、人生の方は我々がどこへ行っても、いやでもついてくる。
 酒というと、酒が自分の前に置かれて、飲んでいるうちにいい気持になる。こんなにうまい仕掛けというものはないので、その本当の味を楽しむためにも、家を出る必要がある。家でならば、黙って自分で一升びんを開けてお燗して飲むことも出来るが、自分の家というのは自分の感じが強過ぎる場所で、それ故に泰西名画の複写などを掛けて置いても、かえって邪魔に感じられることの方が多いものである。酒も同じことで、寝ても覚めてもお馴染みの自分の影を相手に飲むよりは、誰もが大体同じ人間になる街中に出て飲んだ方がいい。いつも同じ自分の世界を離れて、博物館で名画と向き合ったのならば、飲み屋でお銚子を取り上げる時、我々はもう玄関のベルが鳴ったなどということを気にすることはない。今度は自分ではなくて、酒が相手になってくれる。日頃、頭の中で行われている対談は断たれて、ただそのままでいれば、それで寂しければ、寂しさを感じる世界が開けていく。
   吉田健一「続 酒肴酒」

 「よし田」とは、今のビルディングに移転をする前の店舗で、出会うことができた。その時、私は東京での生活にとほうに暮れていて、血迷って入社した産経新聞の、新聞配達の仕事をばっくれたその晩に、あー、すこしは銭があるな、どうしようか、とわくわくとしながら算段をし、そうだ蕎麦でも食おう、と銀座に行って、「よし田」に入ったのである。ひとかどの愛書家でなければできない、よく分からない判断であったが、今となってはそんなことがよき思い出と化してしまうのだから、銀座は、不思議だ。まだだれもがスマートフォンを持っているという世相でもなかったから、数寄屋橋交差点のあたりで地図をぐるぐると広げていると、遊び慣れた紳士が、よし田さんならばあそこですよ、と教えてくれる、そういういい時代でもあった。援助交際(当時はそう呼んだ。今でもつかわれている言葉なのかしら)をしているとおぼしい、隣席のおじさんと少女との話を聞きながら、なんとか店内の空気を腹いっぱいに吸い寄せようと、実直な、儀式ばった態度から燗をつけてもらい、それを飲んでは、天ぷら蕎麦をすすっていた。感動するほどには蕎麦は美味のものではなかったと感じていたが、「よし田」が最高の蕎麦としか今の私にはおもわれない。蕎麦、という語との釣り合いから。つっかけで食べに行く、行かなければならないその風趣との兼ね合いから。くりかえすが、新聞配達員としての逃避行が「よし田」とその私との出会いだったのだ。それ以後は、おむすびつきのランチタイムによく盛りそばばかりを頼み、友人をさそって酒を酌み交わし、最近では、長く交際を経ている女性を連れて、その「よし田」の窓から銀座の歩道を眺めては、ああ、そうか、私は今どうであれこのようなかたちで、ここにいるのであったか、と、ほぼ震撼、といってもいいマチズモ的な美意識が入り交じった認識を、しいられていた。なんだかそれではよくわからないが、とにかくそれは私に、抜き差しならない人生の一瞬間であったわけだ。二十年近くも通い続けていればそのような瞬間も訪れたものであったろうが、そこが蕎麦屋であるのならば、しっかりとした結構を有した蕎麦屋でなければ、訪れる時も訪れはしなかったであろう。
 詰まり、東京に行って名のある店ひとつに入る、通う、そのような営みであり、ひとつびとつの体験を前にして、私の住む東北の県の飯屋を、百店食べ歩いたところが、その体験の片鱗にすら出会うことはかなわなかっただろう。どうであれ田舎に住むということはそういう事態を招かざるをえないのであり、それが田舎ぐらしの、不便である。いろいろとそこには事情があるのであり、地方には競争がない、料理人の人材もない、といった逐一もあっただろうが、東京がもつダイナミックな歴史性がなく、美食の都市としての特殊性にも、欠いているのが地方ということ、なのである。地方在住者ながらにして、私は地方で飲む酒に、本当の甘美なものを見出しえたためしがない。

 また数寄屋橋の界隈になってしまうが、たとえば銀座のオーバカナルの、パナッシェ。あの細身のグラスにそそがれた、琥珀色の液体をたよりに、ポーションでとってもらった皿をならべて料理を食する快楽は、「酒を飲む」という行為、あるいは一連の流れ、さりげなさを湛えていたいその行動に、もっともしっくりとはまっているがゆえに、快楽なのであろう。そうとでもしなければ、あの美しさの正体は、私にはつかめないようにおもわれる。フレンチ式によそよそしい、その給仕たちのよそよそしさが非常に心地良い空間を演出してくれる店内で、友人に「伊藤君は田舎者だから」とそんな時、そしられようとも、私には「いいじゃねえか、だれが東北生まれで、だれが軽井沢に妾宅だかを構えていようが」と、安穏としてすべてを受け容れられる心地にひたっているのである。

「眼と視力は人格の中心であるという考えかた」――日高敏隆「春の数えかた」、ゴンザレス=クルッシ「五つの感覚」

 短気で、そそっかしく風景を見渡していてしまう。
 中尊寺に行った時もそう。
 なんにもおぼえちゃいない。
 或いは、一部の本を読んでいても、数行を読んでは斜め読みをしていくだけで、この本はどんな性質の本であり、中核の部分にはどんなことが書かれているのか……と読む。はじまりは「アンチ・オイディプス」をそんなふうにして読んだ。ときどき、当たる。
 離人症という持病をもっている。
 風景から実感が切り離されて、自己がまったき孤絶しているかのように感じる、病気である。

 道端の木にヤマノイモのつるがからまっている。ムカゴを探してみたいところだが、さすがにまだ夏。ムカゴはついていない。つるを辿って目を移していくと、細長いハート形の葉が次々に並んでいる。そんな中の一枚には、ハート形のまん中あたりに小さな葉のかけらがくっついている。よく見ると、このかけらは、葉にしっかりと糸でくくりつけられているではないか。
 これはダイミョウセセリというセセリチョウの幼虫のしわざである。幼虫は身をかくすために、自分が食べものにしているヤマノイモの葉を切って葉っぱの上に置き、何か所かを絹糸で止める。そして昼はその中にかくれ、夜出て葉を食べるのである。

日高敏隆「春の数えかた」

 動物学者のこの観察を、現代文学においては稀少となった対象描写の一種なのだとして読むと、私はここに失われた古き良き純文学、をみる気がする。
 いずれにせよ、僕にとっては、切り離された風景の、文章だ。切り離された風景。そういうものがあるのだと語感からでもわかってもらえばそれで十分である。
 だから、このように、書きたくなるのか。そこに拘泥してしまうのか。
 こんにちに於いて、かつて「純文学」系統と捉えられた伝統的な叙法、文学的修辞は、たとえば科学的修辞となって、寧ろ職業的作家ではない、上質とされるエッセイを書くひとの文章に、このように散見されるようになったわけである。
 本邦に於いて「純文学」的言辞というのはひとつのパラダイムであり、文学的とされるイディオムといおうか、クリシェでもない、ある風合いのことを指す。そしてそれはアルシテクスト性、文学の文学性となり、数多の追従者たちを呼び込むこととなる。このように書けば「文学」なのだろう、これでいいのだろう、というような。たとえばそれにパロディカルなまでに依拠をした作家に辻仁成がいる。そしてたとえばそれを意識せずに済んでいられていた世代の作家たちには、高樹のぶ子、宮本輝、――せいぜいが上質な作家で云えば佐伯一麦くらいまでが継承したのが、日本の「純文学」であっただろうか。間延びをした、冗長といえる言語のゲシュタルト。
 しかしそれに私は惹かれていた。純文学的なものに、というよりは、その間延びをした加減に、冗長さのなかに垣間見える時間性に。読書でしかえられない、間の感覚、時間の感覚というものが、そこにはたしかにあり、たとえば「嵐が丘」のような小説を読んだ時に感じる独特の、ゆったりとした大時代的な時間の広さに、私はあこがれてきたのである。それこそが私にとっての読書だった、というまでに。そんな時に、私は私の短気に、嫌気が差す。

 心を惹かれるものと醜怪なものとのいりまじった以上のような諸事実に基づいて、眼と視力は人格の中心であるという考えかたが成立する。〈我〉すなわち自我は眼にひとしい。
F・ゴンザレス=クルッシ「五つの感覚」野村美紀子訳

「書くことは苦しいが、それ以上に創り出すことはもっと苦しい」――出久根達郎「古書法楽」、ジャネット・ウィンターソン「灯台守の話」、野口冨士男「誄歌」

 日比谷のドイツ居酒屋でランチを食べたばかりだというのに、「丸香」のうどんを食べさせられて(もちろん私に食べさせられたという意味だ。あの讃岐うどんに私はほんとうに心酔をしているのだ)腹がコチコチの連れとともに、神保町のブックフリマに寄る。国書刊行会、文学通信社、白水社、……。
 書物、ことに古書は、やっかいだ。実際問題として、地震で斜めにかしいだ本棚に二千冊の蔵書があるのはまだカワイイもので、そのたもとの部屋のあらゆる場所に本の山が偏在する状況下、新しく本を購めてもどこに置けばいいのか定まらないなかで、モノとしての本に、いや敢えてモノとしての、なぞと冠するまでもない「本」に、いかなる感情を抱けばいいのか。そして、それだのに神保町に対して「愛憎相半ばする」などとは言い様もなく、駅の改札を抜けた前後には首尾良く、百円玉の硬貨を用意していてしまう。キッチン南海のカツカレーや、欧風カレーの店の味と同質の、街のすべてに、田村書店のワゴンに、矢口書店の外壁のような棚に、ブンケン・ロックサイドのワゴンに、愛着をもつ、憎しみなど抱けない、そのことがやっかいだ。 

 古本屋修行ののっけは、内外のあらゆる分野の人名を覚えることである。業績などはさておいて、とにかくも名前だけを頭にたたきこむ。本の価値を判断する際、その記憶がものをいう。古本屋は各自が見出しのみの人名辞典を脳中にかかえていて、その厚薄の度合いが商売の繁盛を左右する。人の眼玉と名前でめしを食っているなりわいなのである。従って亀の甲より年の功が幅をきかせる世界である。私のような若僧が所持している人名辞典は、欠落が多くて使いでがない。
出久根達郎「古書法楽」

 もちろん、敬意をもつ、もたないわけがないというのは、敬意という一語にこれまで付き合わせていただいてきた、古書店のひとつ、ふたつと、身に覚えがあるからなのだが、しかし、いっぽうでそれを退屈だ、ともおもう。本、というものの価値を決定づける主観的なものが、そこでは、市場にひろがる客観的なるものになにほどか回収をされてしまっている――と、だから、切り捨てるのがどうにも自分でイヤったらしいのが、敬意、の由縁なのであろうが。
 書物への愛とは一体なにであっただろうか。物語を乞うことによってしかまかなえない、埋め合わせのきかないなにかをもつ、ということは、すでにして不幸な人生なのであったし、すくなくともドストエフスキーの小説を読むのであってもそれをしてひとはひとを変わり者である、あのひとは世間とずれている、というふうに称するのであって、それは現代の社会における多様性などという、ナマヌルイ言葉によって単簡にあしらわれる筋道のことでもない。どうあれ読書は徹底的な、孤独な、営為だ。ひとは他者の物語に、それがどれだけ現実ばなれをしていても、パンを肉としてワインを血だとみなす敬虔なカトリックの信徒のように、なにほどかの忠誠を「物語」に誓う。そうでなければ、本はあなたの友ではなく、あなたは本の友ではない、本に就いて語る資格をそも、もたないのではなかったか。しかし――。
「灯台守の話」はたしかに優れた小説だったかもしれない。円やかな書き言葉、知的で緻密な構成、登場人物の魅力的な書きわけ、……。年老いた灯台守は、身寄りのない孤児である主人公に夜な夜な物語を語り伝える。主人公にとってはドン・キホーテのように物語がすべてとなり、物語が「私」となる。

 私たちの物語はしごく単純だ。私は他人の使いとしてあなたを迎えにいき、かわりにあなたと愛し合った。魔法、と人々はあとで言った。たしかにそうだった、だがそれは人の手で調合できるような類のものではなかった。
ジャネット・ウィンターソン「灯台守の話」岸本佐和子訳

 さまざまに予防線が張られているが、私はこのように、物語のなかに「物語」をあつかう申し開きが、好きではない。物語と「愛し合った」なぞと云うのならば、その弁明をするのではなく、それより先に、その「愛」なるものに釣り合った物語を、小説を、どうとでも、書けばいいだけなのだ。メタ・フィクションとは、たえざる自己言及の形式であり、書くことについて書くことの野暮ったさが、ここには展開しているだけではなかったか、そう私は言いたくなってしまうのだ。物語のなかに物語の愛を表明することは、心ある読者たちを不審に追いやるだけなのだ、と。

 野口冨士男のこの小説とも評伝ともつかない文章と出会う時に、メタフィクション―自己言及のいかがわしさについて、膝を打つような心地になれたのであったかもしれない。

 風葉の気持が、私にもわからぬではない。岡保生に対しても、異見はない。が、職業作家が作家生活を継続するという営為は、ある意味で恒常的に地獄の苦しみに耐えぬくことだろう。書くことは苦しいが、それ以上に創り出すことはもっと苦しい。その苦しさをまぎらわすために酒を飲むことはすこしもかまわないし、飲んで酩酊しようが、泥酔しようが自由だが、書くものがないので他から借りるとか、つらいから執筆を勘弁してくれという勝手は許されない。特に連載小説の場合、ひとたび読者の前に差し出した作品は、よしんば中途でいやになっても、あるいは出来の悪さを自覚したとしても、それなりに最善をつくして完結させねばならぬ義務がある。芸術であろうがなかろうが、高尚であろうと低級であろうと、文章を売って暮らす人間のまもらねばならぬ、それが最低の任務である。風葉には、そうした責任感において欠けるところがあった。名人気質というような言葉で、許される問題ではない。が、その名人気質が、彼にはあった。それだけにすがって、彼は五十年の生涯と三十年の文筆生活を送ったと言ってもいい。そして、文学者としての彼の長所と欠点、美点と短所もまたそこにあった。
野口冨士男「誄歌」

「誄歌」はほぼ全篇が小栗風葉の評伝となっている破格といえる小説である。自らの「残生」を風葉に託す構成はあるものの、風葉に対する見識の精度と深度が「自分さがし」の趣を徹底的に排して、慥かな人間観としかいえないものを突きつけ、読み手に知的な緊張を迫る。メタフィクションとは物語を書くみずからの在所をめぐる物語である点で、よほどのかまえがないかぎりは広義の「自分さがし」に陥るはずだった。すくなくとも、物語を書く書き手とは一体なにであるのか、がそこでは問われる。
 だが、その手つきを徹底化し、真面目に、書誌学的にやると、神保町の匂いがしはじめると同時に、ボルヘスやエーコ的な世界が展延される。否、野口冨士男のストイックな構えは、たとえば「神保町の匂い」といった感覚的なものをさえ峻拒をしているのである。そこでは人とは書物であるとまではいわずとも、書物が人であり、そして書き手と称される人びととは書物にすべてを託した人間たちであったのは、云うまでもない事実なのであり、その事実性を追いかけることもまた、ひとつの「人間」への目、なのであった。

 国書刊行会の売り場の前で、イザベル・アジェンデの本の前で佇立している連れに話しかける、「『精霊たちの家』はきみはもっているぞ」「嘘、もっていたっけ」「俺が『パウラ』をもっていて、それ借りようとおもっていたんだ。そこのボルヘス要るか?」「ああボルヘスの『記憶の図書館』はもってるもってる」「お互いまったく把握してねえな」――国書刊行会の売り子をしていらっしゃる方が、にこにこと笑ってこちらをみていた。結局、降雨のなかぽつ然と売り場の外で待っていると、連れが、ボルヘスの「記憶の図書館」を買ってもどって来たのは、どういうわけだったのか。

「真に偉大な作家は、ものを書こうと欲しない」――ウィリアム・ジンサー「誰よりも、うまく書く」、ヘンリー・ミラー「薔薇色の十字架 セクサス」

 どのように怒るのであっても、世界を呪うのであっても、――またはただある事項についてのなにかの説明を成すというのであっても、文章を書くという行為は結句、垂直な祈りに似た行為とならざるをえない。そうあるほかないのだ。いかなごろつきによる、非生産的な営みとしての書くこと、であっても、そこでは書くということの達成が企てられ、企てが企てであることが、純粋な力で、願われている。書く以上、人になにかを肯定していてしまう。もっと実用的にそれを言い換えれば、たとえば、こうであってもよかったのだろうが、

 どんなものであれ、創作はつまるところ問題を解決することである。それは、どこに行けば事実を入手できるかという問題かもしれないし、素材をどう系統立ててまとめるかという問題かもしれない。あるいは、アプローチの仕方、執筆の姿勢、文体や調子の問題かもしれない。何にせよ、それに立ち向かい、解決しなければならない。ときには正しい解決策が見つからずに落胆することもあるだろう。何の解決策も思いつかないことだってある。そう言う場合には、こう考えるかもしれない。「九十歳まで生きても、この泥沼から抜け出せそうもないな」、と。私もしょっちゅうそう考える。それでも最後には問題を解決できるのは、五百回も盲腸の手術をこなしてきた外科医のように、前にも同じ場所に立ったことがあるからだ。
ウィリアム・ジンサー「誰よりも、うまく書く」染田屋茂訳

 いくぶんかプラグマティックな調子だが、しかし文章を書く人のための教則本なのだから、プラグマティックであることがここでは求められているのだ。こう云ってもいいだろう。村上春樹の小説は弁証法的に、彼のキャリアをつうじて前へ、前へととにもかくにも、進み続けたが、彼当人は絶望を書くことによっても救済をえることはできないのだ、とあるエッセイ中に書いている。小説を書くことによって救済はみられないが、絶望についての、より具体的な地図のごときものを手に入れることができる、そしてそれはひとつの救済の片鱗のようなものではあるのだった、と。彼の作品のある種の明るさとは良いコントラストをなす、厄介で、暗い言辞だ。
 それでもまだ、このような言い条が変わらずに「実用的」に過ぎ、平板な、耳慣れた言辞にしかきこえないのだとしたのならば、そこにはこうした事情があったかもしれない、

 書くということは、ぼくの考えでは、無意志的な行為でなければならぬ。言葉が、深い大洋の潮流のように、それ自体の力で表面にうかびあがってくるのでなければならぬ。子供は、ものを書く必要がない。彼は無邪気なのだ。大人は、おのれのまちがった生活によって鬱積した毒物を吐き出すために書くのである。彼は、おのれの無邪気さをとり戻そうと試みる。だが彼が(書くことによって)なしうるのは、せいぜい自己幻滅のヴィールスを世間にまきちらすことくらいだ。おのれの信ずるところをやってのける勇気をもつかぎり、人間は一語たりとも紙に書きつけたりはしないだろう。ものを書く人間のインスピレーションなんてものは、そもそもその源泉においてゆがめられたものなのだ。もし人間の創造しようと欲するものが真理と美と魔術の世界であるなら、なぜ彼は、おのれとその世界の現実とのあいだに何百万もの言葉を挿入しようとするのか? 彼の真実欲するものが他の人たちのように権力や名声や成功でないとすれば――なぜ行動をあとまわしにするのか? 「書物は人間の死の行為だ」とバルザックは言っている。しかも、真実を見抜いた彼は、ことさらに天使を、おのれにとりついた悪魔の手に引き渡したのである。
 作家は、政治家やその他の香具師どもと同じく、恥も外聞もなく大衆にへつらう。医師のように大衆の動向を触診し、処方箋を書き、地位を獲得し、一つの権力として認められようとする。たとえ千年後にくりのべられようとも、なみなみと注がれる追従を受けたがる。即座に築かれるような新しい世界を彼は欲しない。そんなものは自分に適しないと考えるからだ。彼が欲するのは、そのなかで自分が無冠の傀儡的支配者となり、まったく自分の支配力を超えたさまざまな力によって操られるような一つのありうべからざる世界である。彼は狡猾に――諸象徴の織りなす仮構的な世界のなかで――支配することに満足する。生まのままの荒々しい現実と接触することは考えるだけでも身の毛がよだつからである。たしかに作家というものは、真実に対して、他の人々よりも深く大きな理解力をもっている。けれども、そのより高い真実を、例証の力によって、いやおうなく世間に押しつけようとは努力しない。彼はただ説教し、災害と破滅の跡を追って、ものうげに歩きまわり、死を告げる予言者の地位に甘んじている。つねに他から尊敬されず、自分の能力の適不適などにおかまいなく世間日常の事態に対して責任をとるつもりでいる連中から、つねに石を投げつけられ、つねに疎んじられる。真に偉大な作家は、ものを書こうと欲しない。
ヘンリー・ミラー「薔薇色の十字架 セクサス」大久保康雄訳

 これはいかにも「作家」的な文章、作家が作家について書く文章であっただろうか? たしかにヘンリー・ミラー特有の饒舌もあいまってラディカルに過ぎたかもしれないが、この巨人の前にあっては文章が生み出すとされる諸々の「解決」とやらが、ちょこざい、「狡猾」な方便にしかならない。ミラーもその小説家ではないか、今まさに小説を書いているそのなかでこう書いているのではないか、というような言い様は、二の問題を扱っているにすぎない。かくのごとき怒りは、書くということがひとつの和解であり祈りであり、自己肯定という名の自己規定であること、に由来をしている。自らが「書いてしまう」、自作の「傀儡的支配者」となることとは、人間にとって、そもそもが自らを見限った上でしえ成されえない、妥協のといおうか、ひとつの世界を構築せんとするがためにそこにある「現実」を捨象するという、覚悟というには顛倒をした覚悟に、ほかならぬ行為であるということを、指弾しているのである。ここでは書くという祈りの行為が祈りであること、しょせんひとつの自己肯定の自己肯定であること自体が、呪詛の対象となっているかに、おもわれる。
 書くことはたやすく、一篇の物語を書ききることも、もはや子供ではない私たちにとっては、たやすい。そして書くことをこいねがう人間が、「書こうと欲しない」こと、自らの祈りの単に祈りであることを厭い、わずらい、世にはびこる「小説」なるものに唾棄をして、そこからこそなにかを、結句、書き出そうとすること。

 

 

「実際は、決して、そのような希望が満たされることはないのだ」――伊藤整「新しい一年」

 新春の雰囲気といおうか、たたずまいといおうか、そこにつき纏うある種のイメージが、好きである。新春なのであるから、それは清澄なイメージに決まっているのであったが、その清澄なイメージとはしょせんは時計の針によって測られる、人間の愚かな錯覚のごときものでもあっただろう。どだい人間などすべて錯覚で生きているようなものだろう、とする私に、その錯覚は居心地がよい。
 その錯覚は、暗がりの路地をすり抜けていく真っ白い猫にでもなったかのように、私のことを感じさせる。または、春や夏の気配を感じ取り今年の春こそは、夏こそは、というたいして実りそうもない何かを夢見る一瞬のはかなげな感懐をもつ心情に、相似ている。どうあれ一月一日というはじまりの日を迎えたそこで、私は、なにかの変化を待つことの、若々しさに惹かれているのである。じっさい、なにがしかの若さを信じることもなしに、新年を祝うということを人はなしえたものだっただろうか?
 伊藤整は、表舞台では「仮面紳士」として川端康成であれ三島由紀夫であれ、その隣でニコニコと愛想良くしている人士であった。三島は自身の言動を批難された折にどこかで書いたか、言ったかしている、「伊藤さんのようにニコニコしているのも問題なんだぜ」。その通りであっただろう。だが、伊藤の私生活を覗いてみると、銀座のバーに愛人を作り、家族の皆を冷淡にあしらい、時に大声をあげて痛罵をするような、厄介な人間であり、そして優れた作家の通例にしたがって、細やかな自意識が過剰に働く人間であった。

 新しい年が来て、それを我々は「めでたい」と言う。私にとっては、この「めでたい」という気持は、まだ、自分の人間としての間違いや、仕事の失敗や、他人にかける迷惑や、恥や怒りや悲しみなどに汚されていない時間のはじまり、として実感される。
 この新しい年には、自分の仕事をなるべく立派なものとして成しとげ、恥かしい思いをする行いや言葉をつつしみ他人に迷惑をかけず、少しでもよいことをしたい、という気持で、生活をはじめる。その気持は誰にとっても同じようなことであろう。
 ところが、実際は、決して、そのような希望が満たされることはないのだ。我々は、正月の元日か二日のうちから小さい嘘を言いはじめ、他人の蔭口を利き、酒をくらって人を嘲笑したりしはじめるのだ。
伊藤整「新しい一年」

 はじまりが清澄であるのは、私たちがこの文章のようにであったか否かはおくとして、けがらわしく煩雑なものとして、つまりは正当に世俗を認識しているからにほかならない。そして私たちは、この世界に、世俗に投げ込まれてしまっている以上は、かつての大志や、かくありたいという信念のごときものをある程度は犠牲にして、生き続ける途上を選ばざるをえないのである。私たちは失敗をこさえ、迷惑をかけ、「恥や怒りや悲しみ」の虜囚となり、かつてあった透明な、清澄な響きのする、何かをそれらにかまけているうち、忘れてしまう。そしてそれは面倒なことに、完全にではない。その思念を残存をさせながら、忘れているがゆえに、酒にかまけた蔭口といった世俗の事象は甘美となり、益体なくなり、どうあれそれをクダラナイものなのだと認識をし、そしてある時にわれに返ったように自らの仕事を、本来めざしていたものを、白猫のように緊張した尻尾を携えて振り返る。

「沈丁花の香が僅かに」――檀ふみ「どうもいたしません」、伊藤マリ「帰らない日へ」

 近代文学というか、日本における近代国家のはじまりは言文一致運動とともにあった(こうざっくり言ってしまうと近代史家に怒られるのかもしれないが)。近代国家の創設と連動をして国語運動が興るのはなにも日本にかぎったことではなく、ドイツではグリム兄弟がナショナリストであったし、フランスではアカデミー・フランセーズがある(フランスをみるとわかりやすく、中央に権力を集中させるため、移民がたくさんいた国のなか、移民の作ったフランス語をこれはフランス語ではない、これはフランス語である、……と国語を作っていき、それが近代国家を作る上で重要な課題となったわけである)。ざっくりと云ってしまえば、日本の近代文学とは言文一致体で書かれる、「だれでも読める小説」であることを目的として書かれるようになり、そして遂行をされていった。その歴史の流れは、私たちから漢籍の素養を完膚なきまでに忘却をさせるに至り、インターネットの台頭によって起こった「国語」の変化が一体なにであるのかは、未だ、たしかな答えは見つかってはいない(ネット時代以降、ネットが原因か否かはおくとしても国語力が全体に衰退をした、というのはだれしも明確に言いうることであったろうが)。
 幸田露伴の最高傑作は幸田文である、という言い方があるのだが、実際、文の天才に比すれば露伴は小さくみえてしまう――そこには、漢籍も碌に読めなくなった私たちのリテラシーによる責も大なりなのであったが、時代状況によって価値基準は変わるのだ、という捉え方もできただろう。幸田文の文章に触れられる私たちは文の日本語の凄みを触れられる、幸福な世代であり、それを手放しに喜んでいればいいのである。
 優れた二世作家には、ほかにも森茉莉がいたであろうし、作家の嫁ということであれば坂口三千代、武田百合子、高橋たか子と、ぱっと思いつくだけでもそれだけいるが、男流は少ない――忘れてはならないのは北杜夫であろうが、この書き手は精神科医にして躁鬱病に瀕してしまう。やはり男性というのはプレッシャーに弱かったりするためであろう。
 幸田文や森茉莉と比すれば、可憐であるのは否めないが、現代の二世作家を思う時、私をえも云えぬ温暖な気分にさせてくれるのが、檀ふみである。

「女優道」は、女優さんにならうのがいちばん早い。
 しかし、私が日本一と思うヘア・メイクさんは、並の女優などより、はるかにその道に明るい。なにしろ、何十年という長きにわたって、様々な女優の生態を裏から表から、研究しつくしているのである。
 たとえば、支度中に「コーヒーいかがですか」と尋ねられたら、コーヒーなんぞ大嫌いでも、「いえ、結構です」などと言ってはいけない。
「ほかの人が飲めなくなっちゃうでしょ」
 このあたりは、くだんの女優さんと同じ意見である。
「人に考えさせなきゃダメ」と、彼は言う。ちょっとでも腑に落ちないことがあったら、眉をひそめ、しばらく黙って動かずにいる。「何かがお気に召さない」と、周りが気づいて、あたふたと駆け回るまで、じっと沈黙を続ける。
 考えさせることによって、人を成長させる……わけだ。
 あるとき、彼が選んだかんざしが派手すぎた。鏡をにらみながら、私は黙って眉をひそめることにした。さすがに女優の心を知る人である。すぐさま別のかんざしが用意された。それもなんだか違うような気がしたので、ダンマリを続けた。三つ目にも笑顔を見せなかった。
 すると、突然、彼が天を仰いで、何やら叫び始めた。
「むかしは、こんなヒトじゃなかったのに!」
 女優道は、かくも険しい。
檀ふみ「どうもいたしません」

 場面をコミカルにするため、「ダンマリ」や「ヒト」とカタカナ使いを頻用している点にも、書き手の行き届いた意識が見て取ることができる。
 酒場がよいも碌にしない、現代の小説家の貧弱な経験とはことなり、芸能界という舞台でさまざまな体験をしている上、それをあくまでも読み物として、徹底的に愉しませる文章として、檀ふみは書く。天性のものもあるのであったが、初期のころのものを読むと、こうした着地点のはっきりとした、よくできた構成にはなっておらず、しっかりと鍛錬の人であるのも、好もしい。最近の幻冬舎から出ている随筆集は、いずれもそのエンターテインメント性において、円熟の域に達しており、エッセイストという括りでいえば間違いなく、現今の日本で五本の指には入る書き手が檀ふみであると、私は信じて疑わない。すべての文章にメリハリが効いており、サービス精神も旺盛で、最後の一行でいつでもスパリと、落とす。みごとな書き手であるし、壇一雄という作家から、なぜこのような珠のような書き手が産まれたのであったかと、それを思うとおかしみが湧いてくる。
 二世作家のうちでの変わり種というか、読まれていない書き手のものを紹介しておこう。伊藤整の娘であり、書き手は十七歳なのであったが、ここには揺るぎのない、天才性が垣間見える。息子である伊藤礼も、父伊藤整の評伝をはじめ随筆を多く書いているのであったが、銀座に愛人をつくり家では冷淡な態度をしかとらなかった父親、としての伊藤整を、活写できているのはこの、娘の伊藤マリの方であっただろうし、文章にも、なぜか伊藤整の音韻を感じさせる。読み手が達者であればあるほど、刮目を迫られる性質のリズムがこの何気ない文章には澎湃として、溢れ返っている。

 小郡から山口線へ入った。山中の風景に強く日が射していた。盛春だった。
 旅立つ三日前に北海道から帰京したばかりだった。札幌ではようやく街路に固まった土色の氷が消え始めていた。羊蹄山の近くの山は、雪が雨まじりに降り明け始めていた。やや長い雪中での滞在の疲労と、その日急に襲った受験結果への失敗の予測を持ち、静閑な住宅街を家に向けて歩いた。夕刻になっても日が明るかった。沈丁花の香が僅かにした。帰宅して即時に、置きみやげにしてあった試験結果の失敗を知った。部屋の中で幾時も薄い眠りを続けた。遮蔽した扉の外で朝が明け、漆黒が森閑としているのを折り折りに知った。途切れ途切れの睡眠の背景は、羊蹄山の裾野が地平線に漸近して流れる線形だった。一方の高みから眺めると、こちらの山地から羊蹄山までなだらかに平地部が降り又昇っていた。水がうねうねと流れ出していた。エゾ松が薄茶のぼけた斜線を途切れ途切れに描き出し、中腹に達していた。
伊藤マリ『津和野の町は自転車に乗って』(「帰らない日へ」収録)

 標題は「春は馬車に乗って」から借用されているのだろう。
 書き出し部分であり、ここで一行空いて次の段落に移る。中腹に達していた、がこの段落の落(さ)げと成っているのだが、「途切れ途切れに描き出し、中腹に」の「、」の打ち方でとどめを刺すところが、いかにも伊藤整のリズムであるのだが、そうした小手先の上手さや似ている、いないということはどうでもよく、文章全体の硬質でありながら、その硬質さゆえの詩的な風合いを感じさせる語の選択や、文章を膨らませる形容のあり方。一体このような化け物じみた文章がなにゆえ、書かれなければならないのか、一読して唖然とせざるをえない。書き手は三十代に届かず、この本一冊を残して、夭折をしてしまっている。

「私のせいじゃない」――高見順「悪女礼賛」、岡田尊司「愛着障害」、川端康成「みづうみ」

 離人症者として現実感を喪失しているため、また虐待等の既往があるため(基本的信頼感の欠如というタームがある)、ひとに、恋愛の感情をどうも抱くことができていない。どうも私にはそれができないらしいのだ。昔はそれがあった筈なのが今こそそれが、手に届かないものとなっているのが、わからない。恋に高揚をすることもできなければ、惑いらしき惑いを持つこともできない。おなじく離人症者の杉本博司は「アートとは、技術のことである。眼には見ることのできない精神を物質化するための」(「アートの起源」)と書いている。たしかに、あらゆる表現が成されたかのような歴史のはてとしての現代において、表現することがあまねく過去の反復であったとしたのならば、その反復を反復として自覚をすること、技術として処理をすること、が表現者には求められるのであったが、ならば人が他者にもつ感情もまた「アート」なのではなかったか。有機的な感情までもが、テクネーの視座のもとに、置かれるとはいかなことであったか。

 女を愛さない男の背中を女は盗み見している。そうしてそういう女は男から愛されない。男から愛される女は、男からだまされたがっている女なのだ。愛されたがっているというより、はっきり、だまされたがっているという方がいいようだ。女を侮辱しているのではない。男だって、女にだまされたがっているのであり、女にだまされることが男の幸福というものなのだ。だます、だまされるという言葉が気に入らない人には、酔う酔わされるという言葉を持ってきてもいい。
高見順「悪女礼賛」

 現代の小説でも、随筆でも、みることのできない文章であるのは、男/女と殊更に対比をしているが故ではない――ジェンダーの問題などというのはひとまずは、机上の問題であって、私たちの身体なり認識なりに深く、密接に食い込んだものではないためだ。むしろ男が男であるということ、自らの男性性の自覚に根ざした、関係性への省察がここにはみられるのであったが、その甘やかな認識も甘やかな認識であることを保たれているうちは、まだいい、その認識が確固とした冷たい認識となり、認識が認識であるがゆえに女性から、関係性から、突き放され、俯瞰された時に起こる虚しさというものがある。

 回避型愛着スタイルの特性が、顕著に表れるのは、恋愛や家族との愛情が試される場面である。
 回避型の人の恋愛には、どろどろしたものを嫌う、淡泊なところがあり、相手との絆を何としても守ろうとする意志や力に乏しい。
 天涯孤独の身となった川端康成は、伯父の家に引き取られるとともに、祖父との暮らした家は売り払われ、やがて中学校の寄宿舎に入ることになる。そうした体験は、彼を何事にも執着の薄い、恬淡とした性格にした。
岡田尊司「愛着障害」

 熱い認知、冷たい認知という、サイコパスに関連したタームがあるのだが、ここでは詳述は省こう。
 問題は、いかに恋愛が恋愛といえないまで、遠く、遠ざかってしまっていても、それでも女性なるものへの、幻想は、たえることなく残る点だ。いびつなかたちであれ、それは残るのである。恋愛の感情を抱くことができない身体になろうとも――そのような人間というものがいる、のだと言う他ないのだが――恋愛といおうか、女性に欲情をすることは可能である。
 川端の有名なエピソードに、芸者を座敷に並べてひとりひとり、あの眼で見詰めて行った、というエピソードがある。石原慎太郎も同様の逸話を紹介しているが、電車のなか、車窓からじっと、ホームに立っているかする、器量のわるい女性を川端は、凝視し続ける。無機的となった女、人形として処理されるかのような女、のなかから、幻想を絞り出そうとする。この文章などではなく一人の女性をつきまとい続けるという作品全体の粗筋のほうが、事態をよく現していただろうが、

「恋人と言っても、まだ十五よ、満で……。夜桜の動物園でも、私、男につけられたわ。奥さんや子供づれなのに、家族をほっておいて、私をつけて来るんですもの。」
 有田老人はよほどおどろいたらしく、
「どうしてそういうことをするんだ。」
「するんだって……、私は水野さんと恋人がうらやましくて、かなしそうにしていただけなんですもの。私のせいじゃないわ。」
「いや、あんたのせいだ。楽しんでるじゃないか。」
川端康成「みづうみ」

「バルト自身のスタンダールへの道」――西川長夫「ミラノの人 スタンダール」、スタンダール「イタリア紀行」

 ヌーヴォ・ロマンの極北を「人生 使用法」であると思っている――今回、その小説に踏み込むつもりはないのであるが。

 十九世紀的な小説をいかにして現代において、分析をするかにロラン・バルトの「S/Z」などは衷心をしていたわけだが、思想史的にというか、文芸理論史的にはそのヌーヴェル・クリティーク的な意志の超克を志向づけたかたちで、ドゥルーズであれデリダであれ、出てきたのである。そしてそこから先、文学は文学それ自体の力で新たなムーブメントを作り出すことには悉く失敗を喫し続けてきた。詩人が未来派やシュールレアリスムを作り出したり、小説家が自然主義を作り出して、日本の作家たちがそれを必死になって模倣をしようとして失敗をする、ということがなくなった、その時に何が起こったのかといえば、哲学と文学の曖昧な和合のごときものであった、と云えただろう。

 実際に、日本の新人類世代の書き手までは、文芸批評家と呼ばれる西欧思想の解説書のようなものを書く人々の書物を意識をして、そのエッセンスを小説のなかに取り込んでは書く、ということによって自らが知的であること、小説家であることを担保できていたわけであり、それはニューアカデミズム周りの島田雅彦や小林恭二や高橋源一郎の残した作品をみていれば、分かるようなことである。補足するが、たとえば「構造と力」のような書物を読めた作家、読めなかった作家というのに二分した時、読めた作家たちこそが文学上のメインストリームを作り出していったのには相違ないのであるし、その原理は現代文学においてもおおよそそのまま適用できただろう(問題はこんにちにおいては「批評家」が不在である、または有効な強度として作用をしない、権力を有することができない点であり、その意味で、現代文学は小林秀雄の誕生以来およそ迎えたことのない、近代文学から脈々として続いてきた状況からの断絶というか空白を体験しつつあるのであったかもしれなかったが)。どのみち現代においても、世界文学は「文学」としての求心力をもったムーブメントを作り出せないがゆえに、同様の、小説作品における哲学的エッセンスの反復や(新人も含めて山ほどおり、例外のほうが少ない)、過去の文学作品の模倣(たとえば、わかりやすくいって朝吹真理子によるプルーストの模倣もどき)の系譜が継承されていく、というほどの意識もないまま、惰性で続いて行く「文学」、みたようなものが、とにもかくにも、ある。

構造と力

構造と力

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 七十年代には小説はもう、小説としての力を失っていたのだということは充分にいい得るだろう。ここ半世紀間とは小説がアナクロな形式へと退行をしていく、書かれれば書かれるほどにそれが浮き彫りされていく時局であったのだと捉えることは、斜に構えているのではなく、寧ろ真っ当な評価であり捉え方であるように、私には思われる。
 俗事に類することであるが、ノーベル文学賞をみていても事態は明白であったかもしれない。サラマーゴのような小振りな作家がノーベル賞を獲っているのみると、文学というものがいかに世界的に先細っているのか、と思わされ(サラマーゴ自体はいい作家とは思いはするのだが……)、グラスやバルガス・リョサやオルハン・パムクが、まだしも増しだったかと回顧されてしまう。そして、ナディン・ゴーディマの小説を開くとたちまち、ノーベル文学賞など所詮ノーベル文学賞であったのだ、とわれに返らされるわけである。第二次世界大戦後、政治的な色がつくようになったのが大きな要因なのであるが、七十年代以降、技巧的なダイナミックな変化を小説自体が経験していない、それを作り出す能力に「小説」はずっと欠いたままであることも看過できない。
 十九世紀という紛れもない小説の全盛期、天才たちの世紀から、いかにして私たちは離れてしまったのであったか。

 バルトは長い間スタンダールを敬遠していたように私には思われた。バルトの著作にはスタンダールからの引用はほとんどない。ようやく後期の『恋愛のディスクールの断章』に、『恋愛論』からの一節と『アルマンス』からの引用が三カ所現われるくらいである。《私は構造主義者になっていらいスタンダールを読んだことはない》という言葉をバルト自身の口から聞いたのは、もう十数年も昔のことだ。バルトがスタンダールを敬遠している理由を私は私なりに考えて、ある程度は納得もできるように思っていた。しかしもしバルトがスタンダールに接近しはじめるとすれば、それはどのような角度からどのような道筋を通ってであろうか、というのが私の長い間のひそかな関心事であった。バルトは遺稿によってそれを教えてくれた。バルトは自分の日本体験をスタンダールのイタリア体験に重ね、一人のディレッタント的な文学者にとっての旅とイタリアという異国への愛の意味を問うことによって、バルト自身のスタンダールへの道を見いだしている。
西川長夫「ミラノの人 スタンダール」

 好況期の八十年代、生粋のスタンダリアンとしてスタンダリアンの集まりに出、そこでロラン・バルトの講演に耳を澄ませる――それ自体に何等の罪もあるわけではないのであったし、話は相応に興趣に富むのであったが、近代日本文学のはじまり以来、見慣れた日本人の姿を私たちはここで、見させられている。たとえば、ドストエフスキーに憧れながら愛犬の死がもっとも印象的に書かれた二葉亭の小説。ナショナリスティックな心情になびいて云うのではないのだが、それが、鏡に映った私たち自身の姿ではないと、だれに言い切ることができたであろう。翻訳ものの小説を読み、小説についての読み達者となり、通人となればなるほどに、「小説」をめぐる問いかけは、こんにち、半世紀の無為無策を自らのものとして請け負わねばならない性質の、切実なそれとして存在しなければならないはずだ。そうでなければいかにして、小説を語ることができたのであったか。その未来をではなく、現在をすら、語りきることはできなかったはずだ。一体、ここ半世紀間、小説家とよばれる人々のなかに、どれだけの小説家がいたのであっただろうか、そしてどれだけの小説が書かれたというのであったか。

 あの世界第一の劇場へ駈けつける。『青銅の頭像』がまだ上演されていた。わたしは感嘆しどおしだった。場面はハンガリーで起こる。ハンガリーの王は、これまでガッリほど堂々として、荒々しく、高潔で、軍人らしい者はいなかった。わたしの出会ったいちばんよい役者の一人である。今までにわたしの聞いたいちばん美しいバスの声だ。それはこの広大な劇場の廊下にまで響いた。
 衣裳のそろえ方ではその何という配色法。わたしはそこにパオロ・ヴェロネーゼのもっとも美しい絵を見た。民族衣裳の、白、赤、金の華やかなハンガリー騎兵の服をつけたハンガリー王のガッリの傍で、総理大臣は黒ビロードにつつまれ、自分の位を示す記章以外、華美な飾りをつけていなかった。
スタンダール「イタリア紀行」臼田鉱訳

「くだけたガラスをわたる風の跫音」――エリオット「荒地」、島尾ミホ「海辺の生と死」、ピーター・アクロイド「T・S・エリオット」

 四月はいちばん無情な月
 死んだ土地からライラックを育てあげ
 記憶と欲望とを混ぜあわし
 精のない草木の根元を春の雨で掻きおこす。
T・S・エリオット「荒地」深瀬基寛訳

 統合失調症の母が二年前、脳梗塞で斃れ介護施設おくりとなって以後、はたして母に、他者にむけられたかたちでの「人生」というものがあったのだろうかと、時に深くもの思いに耽らされている――このように書く他もなくなって、じかにこう書いてしまうのであったが。それはそのまま、人生とは一体何であったのか、人間とは生きて死ぬだけのそれではなかったのかという身につまされるような深省、でもあるわけである。
 幼年期にレイプをされて実父から見捨てられ、その後、教育も受けずに子供を三人産み、しかし食事もまともに作ることもできずにほぼ寝たきりで、たまに起きたかと思えば統合失調症の陽性症状で家族を振り回すことに、生涯を徒費していた母の人生とは、一体なにものであったのか。私はそれを思うと、深々とした虚無、壁に打ち明けられた巨きな唯物的な穴を見詰めさせられているような気分となり、油断をしていればそこに吸い寄せられていく自分をはっきりと感じる。
 この島尾敏雄「死の棘」にも出てくるテクストの書き手は統合失調症であるのか、否かは、判然とはしていないらしいが、私が統合失調症の書いた文章としてもっともしっくり来るのは、アウトサイダーアートのような仰々しいものではなく、次のような文章だ。

 学校の帰り道でのこと。おおぜいの子供が海辺のきん竹の生垣にとりついて騒ぎたてながら中を覗いていました。何が起きているのかしらと思い、両手で垣根を力いっぱいこじあけた私は、顔を押しつけ竹の葉が頬を刺すのをがまんしながら中を見ました。しかし別段変わったこともなく、山羊小屋の中の白い雌山羊がゆったり横になり、口をなかば開けて「めえーん、めえーん」と柔らかな声をふるわせているだけでした。でも子供たちは興奮した息をはずませ、「うれ、うれ」、「きばれ、きばれ」などと男の子も女の子も声をはりあげて雌山羊を励ましていました。と突然その後足の間から白い塊がぼわーっとあらわれ出てきたのです。私はびっくりしました。子供たちはいっせいに「はあー」と心から安堵のため息をつき、「いっちゃた、いっちゃた」とはずんだよろこびの声をあげました。雌山羊はゆっくりと体の向きを変え、首をうごかしながら自分の舌で波打っている白い塊をいとおしむようになめまわしました。
島尾ミホ『誕生のよろこび』(「海辺の生と死」収録)

 日ごろ、今のくらしのなかに心をむけています時、私はそこにせいいっぱいの気持をよせていますが、ふと、やすらぎのうちに心の紐を弛めますと、すぐに私の心はちちははといっしょに暮らしていたそれも幼い頃の思い出のなかにつつまれてしまいます。心の奥ではちちははの声が絶えず私に語りかけていまして、私をずうっと遠い日に連れ戻していくのです。空を見上げれば蒼穹の果てには、ちちははのほほえみがいつでもありますし、雲の流れにも遠い日々にみたその姿が今に重なりあい、時はひとつにとけあってしまうのです。
『茜雲』

 どちらも、せいぜいが地方の文学賞でも獲って喜んでいる程度の文章であり、良い文章ではない。それはイディオムに満ちた文章も、内容のあり方も、陳腐に過ぎるためであるが、なによりも中高生の「作文」的な、一種の模範的な文章の成り立ちに、この文章がすっぽりとおさまって、居直っているからである。そしてその優等生然とした、無自覚な居直りは、私にとって身近なものとしての「統合失調症」を感じさせる文章として強く、既視感がある。
 平素、口先からはこのような無害なことを言いながらも、すぐと一転してこの書き手は、あらぬ妄想で夫を責め立て、そのためにはいくらでも口汚い語彙を用意しながらも、しかしけして自らの成していることを恥じることがない、むしろ妄想を吐くみずからを正当化できるのは、このような無害で綺麗事の世界を本当に、信じているからである。
 子供の姿を捉えながら「めえーん、めえーん」と羊の鳴き声を書き表す、退嬰的な身振りや、「空を見上げれば蒼穹の果てには、ちちははのほほえみがいつでもあります」といったナイーブさというのでも無垢さというのでもない、気色の悪さといってしまうと問題があるが、外界への本質的な興味のなさに由来した紋切り型は、それを言ったところでなにを言ったことにもならない、なまじ型にはまっているが分だけの極限的な、空辞である。

 名目・世間体・評価に拘泥し、外面的な形式にこだわるのは、融通が利かず、杓子定規であるという彼らの行動特性を反映しているが、同時に自我境界の病理の一つのあらわれとも考えられる。すなわち、外面的な名目・世間体・評価を身にまとうことで、自我境界、自我同一性のあいまいさを補償しているのだと考えられる。
昼田源四郎「分裂病者の行動特性」

 つまりそこにあるのは――これも大分語弊のある言い方なのであったが……――およそ人間の発する言葉でありながら人間の言葉ではない、形式やルールそれ自体に準ずる、それと同化することを試みた言語なのであって、持続的にそれと対面をしいられる人びとが触れるのは、人間的な温かみを帯びた声のごときものではなく、言語それ自体が空回りをする、虚無的な機械音の羽ばたきのごときものなのである。ルイス・キャロルでも、ベケットでも、まだまだ手ぬるい言語の廻転。そして統合失調症者と対面をするということは、読書をする、という体験ではなく、もっと生々しいそのままの体験であり、加えて、それが一体なにであったのかと反省をする働きとは言語活動による他もなく、時にそれを身近に置く者は、狂気という、饒舌な空虚によって圧倒をされ、骨抜きにされてしまう。

 彼女は頭痛を抑えるために、さまざまなモルヒネ誘導剤と共に、アルコールを主成分とした薬剤を服用していた。しかしながら、病状はそれよりもずっと進んでいた。娘は「精神異常」なのかもしれないというローズ・メイ=ウッドの心配は的中したようで、エリオットもモーリス・ヘイ=ウッドも、彼女が何か自暴自棄なことを仕出かすかもしれない、と思い込んでいた。モーリスが語っているところによれば、ある時期に、「入院命令」をもらってヴィヴィアンをある私立の精神病院に――ヴァージニア・ウルフが精神異常の発作の折に入っていたような場所に――入れようという計画が立てられたが、彼女が「持ち直した」ために実行されるには至らなかった。これには他の証拠は全くないが、事態を関係者たち一同が非常に恐れていたので、そういうことはあり得たと思われる。エリオットにとっては逃げ場所はなさそうだった。自分がいかにしばしば週末を他所で過ごそうと、またヴィヴィアンがいかにしばしばイギリスやヨーロッパのサナトリウムを訪れようと、彼女の健康状態は彼の生活の基本に関わる事実だった。
ピーター・アクロイド「T・S・エリオット」武谷紀久雄訳

 駆け落ち同然の体でヴィヴィアンとイギリスに渡ったエリオットが、ブルームズベリーグループの界隈から不気味な男として「葬儀屋」とあだ名されたのは、妻のヴィヴィアンがあらぬ妄想からヴァージニア・ウルフの郵便受けにチョコレートを流し込んだりしていた事由にのみ、依るのではない。もとより彼は銀行員然とした、人間的には退屈な詩人であり評論家であったし、妻の狂気との格闘の末、そしてエリオット自身の保守思想との親和性をもつしがらみゆえに、遂にはキリスト教に帰依をしてしまう。当時のウルフら知識階級にとってキリスト教に入るなどということは、信じられないことであった。
 宗教を信じるに至ってしまうというのは、自らの主体性のごときものの降格を意味していたであったろうが、そもそもがエリオットの「荒地」(全篇が既存の小説や詩作品からの引用によって成り立っている長編詩)ももとは叙情詩のようなテクストであり、それを利用――というと事実関係としても違うわけだが、ごく端的にいって――したのが朋友のエズラ・パウンドであった。病状が悪化する妻を置いて、自らも神経衰弱におちいって休息をする療養地で書かれたエリオットその叙情詩を、パウンドはズタズタに切り裂き、スクラップをし、今ある「荒地」のかたちとした。いわば「キャントゥーズ」の前哨戦である。狂気との争闘のはてで疲弊をきたし、自ら「うつろな人びと」のようになったエリオットの名前で、パウンドは詩によるDJセット、サンプリングをかくして、遂行をする。
 フェルナンド・ペソアの企図を端緒とできるだろうが、現代において、「書き手」の消失を企図したテクスト、テクストそれ自体や、そこにある技巧のみが読まれるべき小説、または本ではない本、として書かれる小説は多いが、かくのごときかたちでまさしく非主体性のモチーフに貫かれた文学作品は、二度と現われることがないかもしれない。つづいて、パウンドはパウンドの狂気に瀕してゆくこととなるのであるが。

 われらはうつろなる人間
 われらは剥製の人間
 藁つめた木偶頭を
 すりよせる ああ!
 われらのひからびた声は
 囁きあうも
 声ひくくして意味なく
 枯草のなかの風
 またひからびた穴蔵に
 くだけたガラスをわたる風の跫音
T・S・エリオット「うつろなる人々」深瀬基寛訳

 人生一般に意味がない、生きることの意味などというものは本質的には存在しない――そのようなことを言うのは、容易いのであったし、それは俗耳に解した言い様でもあっただろう。だがそれも人間の言葉をつかって人間のことを云うのに過ぎないのであり、おなじ人間の口から、それに疑義を差し挟む種々の言葉がついて出てくるのもまた、私たちは知っている。問題は、存在の無意味さを、哲学的なエクスキューズやその手の浮ついた精神論のようなかたちではなく、「本当の人間の姿」を通して感得し続けた時、起こる何かなのである。いかなる答えも、おろか言葉として愁訴する一言をすら途絶えさせる、無意味さに染め抜かれた行き止まり。そこからは創造も成されず、建設的なかたちでの救済が訪れることもない。そのような見晴らしというものが、一個の人間に、たしかに訪れることがある。

(用意が不足で、「荒地」訳文、昼田源四郎氏の著作と、古いエディションからの引用が多めの記事となってしまった事、ご寛恕ください)

「一種のはじらい」――ジャンケレヴィッチ「死」、末井昭「自殺」

 死がわれわれのうちに呼びおこす一種のはじらいは、大部分、この死の瞬間は考えることも語ることもできないという性格に由来している。生物としての連続に一種のはじらいがあるように、越経験な停止にも一つのはじらいがあるのだ。定期的な欲求の反復がなにかみだらなものをもっているとすれば、一つの血塊が突如生命を中絶するという事実も、また、ぶしつけなことだ。いとまごいをすることの難しさそのものの中に、人は訣別の恐怖症とわれわれ生来の連続主義が最後の瞬間を前にして覚える臆病を読み取ることもできよう。始めることも終わることもあえてしないものは、いわば、最初と最後とをはじらうのだ。中間に調整された一般の人間が、ちょうど希望を許さない拒絶のあまりにもぶっきらぼうな否定を婉曲除法の中に薄めるように、また、虚無をあらゆる種類のニュアンスでやわらげ、否定の返事を状況に合わせた一連の様態で色づけするように、死というタブーのことばは、たしなみと思惑のよい表現で慎しくおおい隠す必要を覚える非道な一音節語、発音することも、言うことも、告白することもできない一音節語ではないだろうか。死という短いことばに対する嫌悪、文章を泡立たせ、形容詞をふくらませる傾向は、ことさらに大衆のことばの中に感じられる。このような饒舌は、しばしば臆病さの一つの形なのだ。
V・ジャンケレヴィッチ「死」中澤紀雄訳

 ドゥルーズやガタリの書物が時としてそのように形容されたり、あるいは「性の歴史」以前のフーコーのエクリチュールがそのように形容されるようなそれとは、ことなった意味合いにおいて、ベルクソンの衣鉢を継ぐとされるジャンケレヴィッチの書き言葉は「文学的」であり、哲学が哲学とならない見晴らしから、このテクストもまた形成をされている。大体が「死」というものは哲学的主題としては、どこか不釣り合いなところがあり、かような言語のあり方であるがゆえこそ、「死」というものと大々的に取り組みをできたようなところがあったのではなかったか。
 さて、末井昭の「自殺」は不思議な本である。
 読んでいる間中、ずっと書き手の「背中」がみえるのだが、不思議を感じるのは、その「背中」がしいて「背中」というまでの、がっしりとした逞しさを有したそれではないためだ。ムンクの「叫び」を現代風に、ポップに書き直したイラストが本の表紙になっているが、印象派的に、ボウヨウとして、線の崩れたそれは、背中だったのか、うなじだったのか。いずれにせよ、なにかを感じ、なにかに寄り添う書き手の後ろ姿が、終始ちらつく文章なのであったが、それが見慣れた立体を成していない。
 もっといって線が崩れてしまうのは、書き手が手向ける優しさが、行き場のない優しさであるほかないからであり、書き手みずからも十全にそれを承知した上で、つまりある無力感にさらされた上で、一般的に優しさとされる性質の、その声かけをしているほか、なくしているからだ。
 つまり、どう考えても、自死とは正しいか正しくないかで云ったのならば、「正しい」選択なのだ、――少なくともそう私はおもう。どうせこの世の中は碌でもないのであり、生きるに値しないのであって、それであるのならば自ら「死ぬ」ことを選ぶことは、誠実であるのか否かはともかくとして、「正しい」。
 もちろん、人生なぞというものも社会というものも、正しい、正しくない、という尺度から成り立っているのではなかったし、いろいろなことが降りかかるなかで、さまざまな事情を背負いこむなかで、自殺をすることの正しさから、ひとは目を背けて生きていくのであり、それが普通なのである。諦め、悟り、未練を感じながら、それは、問うてもしかたのない問いへと、いつからか降格をしてゆく。それはあくまでも、不問に付されてゆかねばならない。それであるがゆえに自殺はいつも、青々しく、そしてまた本質的に青々しいものから人は目を背けたがるという曖昧な拒絶の循環が、行きがかりと、生理的な反撥とをぞんぶんに孕みながら作り上げられてゆく。
 末井は読み手たちにむけて自殺を止すよう語りかけるのだが、その口吻はといおうか、ニュアンスは、一本調子ではなく、それらの理路をふくめた上で、つまりはいかに止めようが死ぬ人間は死んでしまうのだ、という諦念や屈折をはらませて、そう云っているのだ。優しい優しくない、というのは生ぬるい言いようだが、優しい、というのはつまりはそういうことだ。世知に長けていて、だめな場合はだめなのであると、諦めもついている。かくして、無神経な言葉ではなく、あたかも死者をも包容をするような、死に向かおうとする者に対する声がけが、このテクストにおいては、得がたく成立をしている。

 パチンコはまだまだマイナーな時代でした。『写真時代』の著者から「スエイはいつからパチンコ屋になったんだ」とか言われることもあって、売れなかったら恥ずかしいと思っていたし、それより何より『パチンコ必勝ガイド』が売れなかったら、僕のやるべきことが何もなかったからです。 
 先日テレビで「パチンコにハマる女」というドキュメンタリーをやっていました。パチンコ店にいると孤独が癒やされるので毎日通うようになり、一〇〇〇万円の借金を作ってしまったという女性が出ていましたが、その女性は「パチンコ台が話しかけてくれる」と言っていて、「あ、僕と同じだ」と思いました。パチンコで一〇〇〇万円の借金を作るなんてなかなかできることではないのですが、その番組は「パチンコをやったから一〇〇〇万円の借金ができてしまった」というストーリーになっていて、「パチンコは悪である」という考え方が根底にあるように思えました。
 しかし、その女性はパチンコがあったから一時期孤独から逃れられたわけです。もしパチンコがなかったら、孤独に押しつぶされて自殺していた可能性だってなくはありません。「一〇〇〇万円で孤独が癒やされたのだから安いものだ」ということだって考えられます。僕は本当にパチンコに助けられたと思っているのでそう思うのかもしれませんが、パチンコで自殺をまぬがれた人だってきっといるはずです。
『パチンコ必勝ガイド』を出すようになって、それまでうしろめたさを感じながら打っていたパチンコが堂々と打てるようになり、ますますパチンコにのめり込むようになります。
末井昭「自殺」

自殺

自殺

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「ゆきあたりばったりな旅」――壇一雄「漂蕩の自由」、金子光晴「どくろ杯」

 私は芸術というものに対して何の定見も持ち合わせていない。正直の話、あやまって文芸の世界などにまぎれ込んでしまっただけのことで、「無能無才にしてこの一筋につながる……」という程の煎じつめた気概もない。
 ただ、私にあるものはどう処理もしようのない不吉な己の心魂だ。手を出し足を出すまぎらわしようのない盲動の五体である。私だって平穏無事は願っている。妻子の飢えるさまを見たくはない。が、何物かに向って飢える心を隠蔽することだけは出来にくい。世の人から指弾されようと、それが己のいつわらぬ漂蕩の性だからである。
 自分の人生をなるべく豊穣に向って誘導することはむずかしい事だ。しかし、誰しも死んで、己の事業を終る。どんな不ザマな生き方だって尚且つ往生はするのである。文士は僅かに己の不ザマの生き方を人の判定に委ねないだけのものだ。富貴にも、権威にも、また、時には人倫の道にさえも……。己の誘導した人生の効果に従って、そのまますぐ亡びさえする。
 その生きザマの是か非かは、大方の社会改良家や社会教育家がこれを判定して、穏健な世論を誘導すればよいだろう。
 文士は己の漂蕩の性に縋りながら、時に危い舟をあやつり悩む時さえある。我ら何の為に産み出されているか、その根本の疑義に怯える時に、幸福や人倫の道に背いたって、真率に天然の旅情を重しとするだけだ。
 いや、弱いのである。暗いのである。我らが急いでゆくその帰結の行方に、皆目自信がないのである。
壇一雄『わたしの洗脳』(「漂蕩の自由」所収)

 典型的な、壇一雄の文章だ。
 小説家なるものはだれしもが文学なぞというものはどうだっていいのだ、とするある心持ちをふとこっているものだが、壇一雄の場合に「芸術というものに対して何の定見も持ち合わせていない」というのは慥かにそうで、慥かにそうで、といっても難しい処なのだが……衒いがない、おもねりもないのだ。ふつうの作家の文章であったのならば技巧が走って、恥ずかしがって出て来ないような生な文章が、つまりは「不吉な己の心魂」、「漂蕩の性」、「人倫の道にさえも……」といったそれが、ゴロゴロと、そうある他もないようなかたちでこのテクストには放り込まれている。ふつうの作家がふつうの文脈で「漂蕩の性」などという語を用いだしたら、目も当てられないことになるのは、わかりきっている。
 無神経さというよりも、「このように書いてしまえ」という大胆さ。筆圧の強い文章なのだが、その筆圧は明確な書き手の企図のもとで、操作をされ、結果としてひどく大胆となり、大胆である事実を前に壇一雄は逃れられないし、逃れようともせずに、飄然と、また快活に、居直っている。
 それゆえに、「弱いのである。暗いのである」と幾ら書き手が書こうが、壇一雄のテクストは、成り立ちからしてその居直りの飄然としたさまや、快活さに満ちており、しっかりと直視するほどに、またバカなことを言っている、と読み手をしばしばその書き言葉独特のユーモアに、絡め取らせる。文章のはしばしに出てくるあざとい迄の豪胆さのユーモアは、それをそのように書きつけてしまう、壇一雄の人柄が喚起させるユーモアでもあっただろう。太宰、安吾の末裔にして、そのパロディストとしての自意識の芸は、うじうじとした自意識まわりの芸の域を突き抜けて、それを外部から嗤う、嗤え、とそそのかす文章を産み出した、そう云ってもいいだろう。
 明度という点で、対照的なのは、金子光晴の文章であっただろうか――金子光晴も、大胆か否かでいえば、大胆に過ぎるのだったが。芸術家としての好奇心にしたがうがまま、外国で売春婦の股を広げさせては、陰部のかたちをもとに文明批評に興じるような詩人。しかし、金子の紀行文には曇り空のような、独特の「暗さ」があり、それがただ日本の近代文学的な暗さ、というのにとどまらない、文章全体の味となっている。
 その陰翳とは一体、なにものであったのか。

 みすみすろくな結果にはならないとわかっていても強行しなければならないなりゆきもあり、またなんの足しにもならないことに憂身をやつすのが生甲斐である人生にもときには遭遇する。七年間も費して、めあても金もなしに、海外をほっつきまわるような、ゆきあたりばったりな旅ができたのは、できたとおもうのがおもいあがりで、大正も終わりに近い日本の、どこか箍の弛んだ、そのかわりあまりやかましいことを言わないゆとりのある世間であったればこそできたことだとおもう。あの頃、日本から飛び出したいという気持は私だけではなく、若い者一般の口癖だったがそれも当時は老人優先で青二才にとって決してくらしよい世の中ではなかったこともあり、また海外雄飛とか、「狭い日本にゃ住み倦きた」とかいう、明治末年人の感情がようやく身に遠いものになり、大正っ子はお国のためなどよりも、じぶんたちのことしか考えられなかった。
金子光晴「どくろ杯」

どくろ杯 (中公文庫)

 一読して、打ちひしがれる文章だ。というのは、これは、小説家の書ける文章ではないためだ。詩人としての、研ぎ澄ました怜悧な認識が、ここにはたっぷりと散文のかたちで展延をされている。「できたとおもうのがおもいあがりで」の重々しいニュアンスに、率直に唸らされるほかもなくなるのである。
 旅をしながらも、詩人は旅のある種の不毛さ、どこへ行こうが人間などは本質的に自由でなどはあれはしないのだ、どこへ行こうが結局はおなじように人間が住まっているだけで本質的にはおなじ場所なのだ、本当に驚くに足りることなどありはしないのだ、という褪めた意識を、把持し続けている。淀み、くぐもって、侘び寂びの効いたその認識を影にして、詩人は何処であれ、引き連れて歩いている。

 みんなで阿片を試煙しようということになった。旅館のボーイが、すぐ了承して、大きな皿のついた阿片煙管と、豆ランプを早速用意してきた。秋田もまだ経験がないらしく、吸いかたをやってみせろというと、ボーイは唯々として、床のうえに寝そべり、半身を起して、ランプに灯をつけ、片手の指さきでキャラメル状の阿片を飴状に溶かし、ふとい煙管の中頃にくっついている算盤球状の吸い口の穴になすりつけては、ジ、ジと音を立ててふすぼるその煙を煙管の管を通して吸いこむというしかけである。ボーイの上唇が、腫物と瘡ぶたでふくれあがっていた。ボーイに代って秋田が一吸いして、私に廻した。私も、ボーイの唇の腫物のことを追払って二口三口吸ったが、吉寺の祭壇のようなふっくらしたあと味がのこっただけで、格別なことはなかった。彼女は、ハンカチーフを出して、吸い口をていねいに拭いてから、かなりながいあいだ味わっていたが、やはりこれという感慨はないらしかった。
  秋田は、二口、三口のんで、煙をほっと吐出し、
「こんなものがどうして命取りになるのかなあ」
 と、うそぶいてみせた。
同上

「今この地においてほど」――ゲーテ「イタリア紀行」

 ゲーテは不愉快になり、次第にワイマルで生活するのを厭わしく思うようになってくる。公爵は軍務に服したくていらいらしている。公爵のこの戦争意欲は皮膚の下の「疥癬」のようにうずいていると、ゲーテは言っている。政治の仕事は退屈になってしまった。恋人のシュタイン夫人は気むずかしい。友人たちの「始末」はつけてしまった。一七八六年以前の三年間、彼はほとんど何も詩作していない。わずかに、イタリアへの憧れが表現されているミニヨンの歌だけである。
R・フリーデンタール「ゲーテ ―その生涯と時代―(上)」平野・小松原・森・三木訳

 夭折の天才ならぬ長命の天才、というのが世の中にはいる。
 ひとりはディケンズ。そしてゲーテも、八十過ぎまで生きた。どちらもただ天才、という言葉では、追いつかないすさまじさを有した小説家であっただろうが。
 この二人の作家はともにその最期まで活力旺盛であって、旺盛どころかゲーテは晩年近くになって「ファウスト」の続編を書くわ、十代の女の子に求婚をするわ、もう滅茶苦茶である(求婚を断った女の子は可哀想に、悩んだすえ修道院に入ってしまう)。
 そのゲーテ、「若きウェルテルの悩み」は書簡体小説でいかにも古めかしい上に短くもあり、「ウィルヘルム・マイスター」「詩と真実」はともに大部であったりして、なかなか読む人は少ないという印象がある。戯曲にも傑作が多いというか、「ゲッツ」のような失敗作にいたるまで読んでタメになるのだけれど(コンセプトが面白い)、戯曲というのはこんにち、流行らないところが多分にある。
 しかし、目利きのあいだでゲーテの本、となった時、「イタリア紀行」を挙げる人がじつに多いのは、あながち消去法ゆえでもないだろう。作家というのはいろいろな紀行文を残す、とくに日本人の全集などを手に取れば、「紀行文」のたぐいに巻がわざわざ割かれていたもするわけであって、漱石にも満韓ところどころがあったり、芥川も中国へ記者として出ていたわけだが、ゲーテを読む、となった時に「イタリア紀行」は周縁的な読みものではけしてない。むしろゲーテという人となりのエッセンスがもっともよく出ているのが、この紀行文なのである。
 書き出しを引いてみよう。

 九月三日の朝三時に、私はこっそりとカールスバートを抜け出した。そうでもしなければ、とても旅には出られそうにもなかったので。八月二十八日の私の誕生日を心から親切に祝ってくれようとしていた連中はそれだけで十分、私を引きとめる理由をもっていたわけだ。が、それ以上この地に長居をするわけにはいかなかった。私は旅嚢と穴熊皮の鞄とを用意しただけで、ただひとり郵便馬車に乗りこみ、美しい静かな霧の朝七時半にはツウォータについた。上空の雲は縞をなして羊毛のごとく、下方の雲は重く垂れさがっていた。
ゲーテ「イタリア紀行(上)」相良守峯訳

 「こっそりと」とは、「旅には出られそうにもなかった」とは、どういうことかというに、小さい国なのだがワイマール公国の最高顧問、時の宰相であったのがほかならぬゲーテだった。それが退屈だこんな仕事は、というので夜逃げをして、小説家や詩人ならばだれもが憧れの対象とする、イタリアむけて旅に繰り出る――それがこの書き出しなのである(もちろん、小さな国は夜が明けると大混乱に見舞われています)。この点はこちらの本の方が面白く書けているだろう。

 ある日、ゲーテがいなくなった。ワイマールの町から消え失せた。
 はじめは夏の避暑に出かけたといわれていた。毎年七月から八月にかけて、宮廷の主だった面々はボヘミアの保養地カールスバートへ行く。あるいはマリーエンバートで過ごす。一七八六年八月、ゲーテはカールスバートにいた。アウグスト公も滞在中で、二十八日のゲーテ三十七歳の誕生日を、ともに祝ったばかりだった。
 九月になって早々に姿が消えた。ワイマールにも帰っていない。居所が知れない。行先がわからない。みんなで手をつくして探したところ、三日の早朝、まだ暗いうちに郵便馬車に乗り込んだ男がいる。どうやらそれがゲーテらしい。しかし、馬車の予約は、見知らぬ名が記してあって、職業は「商人」とある。
 当時、ゲーテはワイマール公国最高顧問官の地位にあった。小なりとはいえ一国の宰相にもあたる人物が、行先も告げず、偽名をつかって旅立った。
池内紀「ゲーテさん こんばんは」

 こんな逃亡、だれにもできないが、いっぽうで些事をなげうって逃亡する感覚、旅することのわくわくとした感じ、高揚感や解放感といった旅の愉しみを、だれしもが知っているはずである。
 旅の愉しみとは本質的にいって、日常のしがらみをなげうち、たとえいっときであれ、自由をかち得るその愉しみにほかなるまい。
 それを極限的なかたちで、しかもこの上なく快活なゲーテが、文章にして書く、それが「イタリア紀行」だ。
 その旅の高揚感はあらゆる事象に作家の目をいきいきとさせ、「上空の雲は縞をなして羊毛のごとく、下方の雲は重く垂れさがっていた」という叙述にもすでにほの見えるが、「色彩論」の著者だけあって、実証科学的な知識と密接に結びついた健啖さがある。
 饒舌がただの饒舌へと堕することなく、巧みな観察の記述へと昇華されていく。雲のかたち、石ひとつ、果物ひとつびとつに、優秀な観光客であるゲーテの目はよく、利く。その文飾もあって、紀行文数あれど、このような幸福感に彩られた書物は、唯一無二のものと、一読だれしも明言せざるをえないわけである。
 スタンダールや、あるいはイギリスのグランド・ツアー文化などをみると(人文教養を高めるために、ダンテがいて数多の美術家がいて建築があるイタリアへ旅に出る文化)、イタリアというのはヨーロッパの人びとにとって非常に特殊な役割を有していた国であり、その文脈においても、興趣は尽きない。

 私はこの地で、久しく感じなかったほどの明朗さと落着きとをもってその日を送っている。ものごとをありのままに眺めかつ読みとろうとする私の修煉、眼の光を曇らせまいとする私の誠実、あらゆる思い上りをすっかり離脱しようとする気持、これらすべてがまた役立って私に人知れぬ幸福を感じさせている。日ごとに新奇なものが与えられ、くる日ごとに新鮮で雄大な、しかも珍しい風光に接し、今まで長く頭に思い描きながらも想像力ではついに捉え得なかった統制ある全体が見いだされる。
 今日私はケスティウスのピラミッドを見物に出かけ、夕刻にはパラティノの丘に登り、岩壁のようにそそり立つあの王宮の廃墟に立った。これについてはもちろん何らの伝承もない。一体にローマではこせこせしたものは何もない。まま無趣味な非難すべきものもないではないが、そういった点もローマのもつ偉大さの一要素となっている。
 人が機会あるごとに好んでするように、私も自分の心を振り返って見ると、私は口にのぼせずにいられないほどの限りない歓喜を発見する。物を見得る眼をもって、まじめにこの市を見物する人なら、かならず堅実な気持にならずにいられない。彼は堅実という言葉の意味を今までになくはっきりと捉えるに相違ない。
 精神は有能という刻印を押されて、無味乾燥ならざる厳粛さと、喜びに満ちた落着きとを獲得する。少なくとも私は、今この地においてほどこの世の事物を正当に評価したことがなかったような気がする。私は生涯に残るべきこの幸福なる影響を喜んでいる。
 では成り行くがままに、身を興奮にゆだねよう。順序はおのずからつくであろう。私はここへきて、自己流の享楽に耽ろうというのではない。四十歳にならぬうちに、偉大なものを研究し、修得して、自己を成熟させたいと思っているのだ。
ゲーテ「イタリア紀行(上)」相良守峯訳

「柔らかい穏やかな光の地帯」――サガン、アンドレ・モーロワ

 ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから。私はこれまで悲しみというものを知らなかった、けれども、ものうさ、悔恨、そして稀には良心の呵責も知っていた。今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが私に蔽いかぶさって、私をほかの人たちから離れさせる。
 その夏、私は十七だった。そして私はまったく幸福だった。
サガン「悲しみよ こんにちは」朝吹登水子訳

 少なくとも、朝吹登水子により成る訳文は美しい。しかしこの繊細さはまだ文章の上の繊細さであり、内心をえぐり、そこから複雑な感情のニュアンスを摘出するような言葉のあり方をしておらず、敢えて強く云えば表面的である。こう云ってもいいだろう。この文章は、思春期の移ろいやすい感情の移ろいやすさを追いかける、あるいは心理の奥行きを顧慮せずに文飾の美しさや論理に忠実であるがゆえに、泡のように空気中をはじけて飛んでいってしまう。
 これから訪れる名声を、そして金にたかる醜い連中どもを、そしてその連中たちに心底から穢されてしまい、覚醒剤に手を出す自らのことを、もちろん作家のこの文章も、そして作家の未来の文章も、ついぞ知らずにいたままだった。「まったく幸福だった」には、書き手について知っている読者に、苦々しい感情をしいるものがある。
 どうであれ、若くして世に出る作家は、必要とされなければならない。その感性の真新しさや、時代性を現すかのような書き手は、求められているか、いないかといった問題よりも先に、必要とされている。もっといって、だれも何も云わずにいようが、むこうから出てくるものなのだったろう。
 さて、私は十七歳ではない。それでも、なにも知らないがゆえに輝く、無垢さを湛えた文章を書くことは可能なのであったろうか。これから訪れる醜い感情までをも含めた、さまざまな人間の感情を知らないものであるかのように、透明な泡のように書くことは、――それを求めるのであったのならば、可能であったのだろうか。
 幾分か、鼻につく、いかにもアランに薫陶を受けた書き手のものらしい文章を引く。

 老いとは、髪が白くなったりしわがふえたりすること以上に、もうおそすぎる、勝負は終わってしまった、舞台はすっかりつぎの世代に移った、といった気持ちになることである。老化にともなういちばん悪いことは、肉体が衰えることではなく、精神が無関心になることだ。細長い髪の線をあとに消えて行くもの、それは行動の能力ではなく、行動の意志である。青春時代の、あの旺盛な好奇心、ものごとを知り理解したいというあの欲求、新しい世界を知るたびに胸をふくらませたあの広大な希望、夢中で恋をする情熱、美には必ず知と善がともなうというあの確信、理性の力に対するあの信頼、そういったものを、五十年間様ざまな体験と失意を重ねたあとでも、なお持ちつづけることはできるであろうか?
 影の一線をこえると、人は柔らかい穏やかな光の地帯に入る。欲望の強い日光に目がくらむこともなくなるので、人や物がありのままのすがたに見える。美しい女は心も立派であると、どうして信じることができよう。女のひとりを恋してみたではないか。世の中は進歩するのだと、どうして信じることができよう。多難だった生涯を通して、いかに急激な変化も決して人間性を変えることちはできないこと、ただ昔からの習慣や、古びた儀式だけが、人類の文明をかろうじて守っていることを、つくづくと思い知らされてきたではないか。「それが一体何のためになる?」と老人は考える。そしてこの言葉が、恐らく老人にとっていちばん危険なのだ。なぜなら、「がんばってみたって何になる」といった人は、ある日、「家の外に出て何になる」と言いだすだろうし、そしてつぎには、「室の外に出て何になろう」「ベッドの外に出て何になろう」というようになるからだ。最後は、「生きていて何になろう」であり、この言葉を合図に、死が門を開く。
 ゆえに年をとる技術とは、何かの希望を保つ技術のことであろうと、見当がつく。
アンドレ・モーロワ「人生をよりよく生きる技術」

 上手に歳をとるにはどうすればいいのだったか――それはだれしもが人間として長く生きていくなかで、時に迫られる問いかけであったり、こちらの工夫をしいてくるやむをえない行き掛かりであっただろう。勿論、そんなものをみじんも考えずにただ生きてゆく人間たちは多く、そして彼等によって私たちはさんざ振り回されるわけであったが、しかしそのような問いを問いとしてもっている者たちは、その問いを大切に温めてゆくほかも、なくなる。そしてまた、歳をとらずに、心を若々しく保ちたい――というよりも、若い音を鳴らし、若い文章を書き、いつまでも尖っていたいという欲求を、気のきいた表現者たちは、だれしもが天分のようにして、もってはいる。それは、人生の上でさまざまなことに諦め、愛想を尽かして背を向ける、自らへの反撥心が、そうさせるのだったから、厄介だ。
 はたして自分は、若くありたいのだったか、歳をとりたいのであったのか――。

「闇の中に閉じこめられた複雑な機械」――谷崎潤一郎「青春物語」、伊藤整「若い詩人の肖像」

 谷崎潤一郎の文章に不感症である。
 官能的な色や、感触ではない、ただ散文的な印象をどの小説からも受け取ってしまうのだ。
 十七歳かそこいらで「細雪」を読んでいたことも、その一因であったかもしれない――近所に学校があり、そこで学生らが華やかに声を上げ、校庭からの野球の音などが聞こえるなかで、なにゆえ、「細雪」を読んでいなければならなかったのか。退屈さを退屈さによって埋め合わせていくような、あの小説と、青春時代の一回こっきりの快活さとは、どうにもそぐわず、ただならない居心地のわるさをもって読んでいたものであった。
 実際に十七歳のころに「細雪」を読んだことがないひとであっても、おおよそのところは分かっていただけるはずだ、なにも、そんなことは当たり前のことなのである。青春、などという大時代的な言葉を用いずとも、読書するなぞよりも、もっと豊かな現実が眼前に、ありえた。
 「痴人の愛」や「異端者の悲しみ」は、どちらかというと中間小説として、そのころに読んでいた。
 評伝を読んでいても、谷崎を、魯鈍であると感じてしまう。触発されてバルザックのパスティーシュをしたという「鮫人」を、そんなこともしていたのかと興味をもって読んでみるが、まったく成功をしていない。

 永井氏の前に、近松秋江氏も新聞の月評欄で私の「少年」を褒めて下すったことがあるけれども、しかしその称讃のの程度と云い、分量と云い、既に大家の域にある作家が後輩を推挙するものとして、永井氏の論文の如く花々しいものは前例のないことであるから、予想の如く、そのお蔭で私は一と息に文壇へ押し出てしまった。私が初めて原稿料と云うものを貰ったのは、その前年、明治四十二年の十二月、『スバル』へ戯曲「信西」を書いた時であったが、これはその同じ月の『新思潮』に吉井君の「河内屋与兵衛」を載せ、『新思潮』から交換的に吉井君へ原稿料を支払うと云う条件が付いていたので、普通われわれの原稿には何処でも金を払わないのが例であり、現にその後の『スバル』へ載せた「少年」や「幇間」等も、私はただで書いたのである。が、荷風先生の推挙があってから間もなく、『三田文学』へ「颱風」を書いた時は、黙っていてもちゃんと先方から稿料を届けて寄越した。次いで中央公論主筆滝田樗陰氏が神保町の裏長屋へやって来た。私は直ちに「秘密」を書いて中央公論社へ送り、一枚一円の稿料を貰ったが、その次ぎに書いた「悪魔」からは一円二十銭になった。私は忽ち売れっ児になり、順風に帆を張る勢いで進んだ。
谷崎潤一郎「青春物語」

 文壇史の一側面を知ろうとする向きには、一定の興味を抱きながら読める文章である。ややはしゃぎ過ぎている感はあるものの、はしゃぐことによって永井荷風への、恩顧を示す、というやり方は、一般的に理にかなった、筋の通ったものであり、その感性といい、文章自体の出来といい、これが「普通」なのだと、私は思う。無名の作家が、大家の、似たような資質をもつ作家に褒められ、出世をする、喜ぶ、それの何が、いけなかっただろう、咎められるいわれなどない、――「普通」は、そうなるのだ。称讃が、はたして、どのような打算のもとから生まれたのかは分からない、そんなことは当人にはどうだってよいのであったし、はた目にもひとまずどうでもよいことなのでは、ある。「普通」は。
 私が云いたいのはかかる「普通」に疑義を抱くということが、いかに困難であったのか、ということだ。ここで引用するのが二度めになってしまうのだったが――(草野心平記念文学館にゆく――伊藤整「若い詩人の肖像」を添えて - 本とgekijou

 以前には私は、白秋、露風、惣之助、光太郎、朔太郎などの作品を傲然として批判し、点をつけ、その中から一二篇を僅かに自分のノートに写すという光栄を彼等に与えていた。今では私は、そのずっと下っ端の草野心平などという変な名前の男をも先輩と見なければならないのである。草野心平というのは全然誤魔化しのでたらめで人を驚かすような詩しか書いていない奴だ、と私は考えた。たとえば彼は、「詩壇消息」の四段組の一番下の欄に「冬眠」という題の詩を書いていた。題は「冬眠」で本文は●という黒丸一つである。蛙のことばかり詩に書く男だから、「冬眠」とは蛙の冬眠のことなのであろう。こんなハッタリが横行し、室生犀星がたまたま身辺に集まった若い者を天才の一群であるかのように身勝手に推薦するような詩壇では、情実や排斥や仲間ぼめや序列などということが横行しているにちがいない、と思い、私は詩壇というものを恐れた。
伊藤整「若い詩人の肖像」

 ここにあるのは、妬みそねみから生まれる、「詩壇」自体に醜い打算があるのだと投影をする、醜い、俗な視線、ではない。少なくともそれだけではない。寧ろ自らが、詩なるものを、文章なるものを、本のかたちにして世に出した時に、どのような状況に投げ込まれることになるのか、人と人との関係のなかにあってどのように、汚れていってしまうのか、それを先取りをして警戒をする、してしまう、神経の働き方なのである。そしてそれは単に――伊藤整はのちに小説家としてよりはまず評論家として大きな仕事をしていくことになったのだが――批評家的な視点、というのでは済まされない、文壇であり、東京という都市であり、ひいては「人間」を外部からみるがゆえにこそ、内面の醜いところへと視線をむけざるをえない、書き手の素質が、そう書かせるテクストだったのではなかったか。

 自分の心の内側の働きはまだオレに分っていない。そこには闇の中に閉じこめられた複雑な機械のようなものがある。そしてそれがオレにはまだ分っていない。そこをのぞいて見るのは怖ろしいことで、今のオレには出来そうもない、と私は思った。
同上

 このテクストはそのような独白によって、終幕を迎える。
 そして、そのダイモンはまずは「新心理主義文学」を生み出すことになる。

 それでは伊藤の最初のジョイス論はどのようなものであったのか。
 伊藤はまず、「小説の既存の限界内に於てはあらゆる探索がなし尽くされたのである」と宣言する。そしていまや、「新しい面を打開すべき方策は唯一つしか無かつたのである。即ち生活の新しく発見された原子である無意識の世界にまでその領域を推し進めることしか」と書く。
川口喬一「昭和初年のユリシーズ」

 「新心理主義文学」は、当時「文壇」において強い権力をもっていた、小林秀雄らによっておよそデタラメな仕方で批難を受ける。シモンズの「象徴主義の文学運動」から適当に引っ張ってきたような文章で、取り敢えず伊藤を叩いておこう、と。かくして以来、伊藤・小林の仲は険悪であり(ともに旅行に行ったりもしているのだが)伊藤は小林を「骨董蒐集家」とし、小林の文章を「信者のための文章」として、こき下ろすのであったが、日本文学史なるものは、小林に軍配をあげ続けているようだ。
 問題は、「骨董蒐集家」「信者のための文章」と他人を、他人の文章を罵る、その自身の「心の内側の働き」に、評論家であると同時に小説家であった伊藤整は、十分に目をこらしていた、ということだ。その態度はのちに「闇の中に閉じこめられた複雑な機械」を小説としては最上のかたちで立体的に捉えた、「生の三部作」を用意することになったのである。

「どこにでもある、ありふれた話だ」――杉本博司、ペソア、アルトー

 恋人にモノでも贈ろうかと銀座の街をふらつくが、宝飾店に入るほどの大上段の心意気でもない。室生犀星が書いている、「女の人にものをおくるということは、たいへん嬉しいものである」(「随筆 女ひと」)というような得手勝手な欲求を、みたす分だけのほんの少しのモノでよかったのであったが。と、たとえば、そのようにして街場を歩いていると、あらゆるモノは銭金で測られ、自らの身の丈どころか内心にある何かであってさえ、相対的な規矩のもとに、さらされるのだ。消費社会論をぶっているのではない、そうではない、原初の感覚のもとでは、すべてが相対化される。海が、劇場のスクリーンを迸る銀色の光が、銀座の繁華な街並みを根こそぎ、呑み込んでゆく時。
 名のあるエステティシャンのサロンとなっているビルのなか、その原初へとひとたび還りつく時。
 プリント一枚の解説にはこのような導入が記されてあった。

 演劇史は文明史と共に始まる。人類意識の誕生と共に、始源のもどきが仮想され、神話が生まれた。神話は祭祀として繰り返し演じられることによって、その信憑性を確たるものにした。
杉本博司「どこにでもある ありふれた話」

 それ自体が写真のような、首を落としたかのように、スッパリとしたこの文章の質感。文化人類学者よりも遙かに透明な、絶対的な感覚に近しいまでの高みから発せられる言葉の、単純にしてビビッドな力強さ。
 写真家は、さまざまな「模倣のもととなったヨーロッパの劇場」を尋ね歩き、古典劇場に架けさせたスクリーンに映画を上映させ、一本の上映中に露光をして写真をつくりあげる。物語という、およそどのようなそれであれ、幾らでも咀嚼をし、展開をし、自ら解釈を作り出しては飽くこともなくそこに新たなニュアンスを付け加えていく、または批判を戦わせる、その「物語」は、際限なく続くお喋りのようなかかる永遠であると同時に、白く発光したスクリーン、一瞬の光へと重なり合って、ここに、画廊のなかに収束をしているのである。永遠が一瞬となり、一瞬が永遠となる、その決定的で、完璧な、いつもの「劇場」シリーズに、「オペラハウス」という舞台設定がつき、そして写真から目をそらせば、手許のプリントに、映画の概説が記されている。

 「終着駅」1953年
 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
 上映時間:1時間19分

 男と女が出会う、そして不倫関係に落ち入る。別れがつらい、しかし別れねばならぬ。美男美女がおりなす別離のせつなさよ。

 どこにでもある、ありふれた話だ。

 「旅情」1955年
 監督:デーヴィッド・リーン
 上映時間:1時間40分

 失恋の心を癒す為に女はベニスへと旅に出る。そして男とふとしたきっかけで恋に落ちる。しかしその男には妻子がいた。いやます恋心と別れの辛さよ。

 どこにでもある、ありふれた話だ。

 この各写真、というよりは映画について解説をする一枚のプリントの標題には
「どこにでもある、ありふれた話」
 とある。これによって、「劇場」は私たちの生きる今ここ、にも焦点を合わせて、適確に像を捉える。ひとつの絶対的なる高みからすれば、いかな生であれ、「ありふれた」生へとならざるを得ない、――いや、を得ない、というよりも、その「ありふれた」窮所へと、鑑賞者は、直截に追い立てられる。影をなくした地点、杉本博司自身がそうであるとカミングアウトをする、自己に自己を感じられない離人症者であるかのような地点へと。

 詩人はふりをするものだ
 そのふりは完璧すぎて
 ほんとうに感じている
 苦痛のふりまでしてしまう
 ペソア「新編 不穏の書、断章」澤田直訳

 その感覚を気に入ったのであれ入らなかったのであれ、どうであれ一生ギャラリーの中にとどまるわけにもいかずに、惜しみながらに、別れの時を選ぶのは「私」であった。
 すっかり写真にうちのめされて、「私」が「私」でないかのように感じつつも、しかし外気の籠もる日常へと、いちど帰ってしまえば、ふたたび、にわかに頭をもたげてくるのはなにものかを売りさばこうとする、ネオンサインの秋波なのであった。そしてここは劇場のスクリーンのなかではない。浅ましく腹が空いた、といって薄汚れた、町場の飯屋へと入り込むそのさまは、たしかに動物園の動物じみていたかもしれなかったけれども。

いい芸術にふれた後って食べ物なんてどうでもよくなりますよね

 われわれが特に必要としているのは、生きることであり、われわれを生きさせているものを信じ、また、なにかがわれわれを生きさせているということを信じることだ。――そして、われわれ自身の神秘的な内部から出てくるものが、いつまでたっても、粗野な食い物の心配となって、われわれ自身のところへかえって来てしまってはならないということだ。
 私の言いたいのは、われわれすべてにとって、今すぐ物を食べることが重要だとしても、さらに重要なのは、その、今すぐ物を食べるという心配のために、飢えるという単純なわれわれの力そのものを無駄使いしてはならないということである。
 アンナトン・アルトー「演劇とその形而上学」安堂信也訳