本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

2023-01-01から1年間の記事一覧

「岩は砂礫となって海に溶け、峰の頂点は青くかすみ、群青の空に融解する」――ウィリアム・マルクス「文人伝」、杉本博司「本家取り 東下り」前期

すべて単純なものは偉大であるという言葉が音楽の方面にはある。それはフルトヴェングラーがベートーベンについて語った時に、もちいた言葉であったとおもう。杉本博司の写真についてどのように語ろうとも、いつものあの、まざまざとした単純さから私たちは…

「文明の始まり以来」――「ユナボマー 爆弾魔の狂気」

食事することによってわれわれは自由をかちえている。ほんとうに旨いものと街で、出逢う時に、街がここにあったのだ、やっと街に出逢えたぞという自由さ快活さを感じとり、意気軒昂と世界の片隅を黒いインクで塗りつぶした心づもりになること。太い文字で私…

「大衆食堂の流れを汲む一膳飯屋のこと」――今柊二「ファミリーレストラン」

かんだ食堂がなくなってしまったことで、秋葉原という街の顔はまたひとつ、掘りが浅くなってしまった、皺がなくなってノッペリしてしまったよなあ、とおもうわけである。秋葉原自体にはあまり縁故がなく、とはいえ丸五のとんかつはずっとずっと味を落とさず…

「老ピアニスト」――ウワディスワフ・シュピルマン「戦場のピアニスト」

テレビはとうぜんインターネットで得られる情報などというものも何等アテにはしていないために、時局にはうとい。その一種の怠け癖にはまた、凝り性であることも一因としてあるのであって、ひとつの時事に半端に首を突っ込むことを、私はうとんじているので…

「荒々しい線で絡み合う男女」――池上英洋「官能美術史」

萌え絵が好きである。あの爬虫類のような瞳で目が描かれた、フリルのたくさんついているようなきわどい衣裳を身につけさせられた、美少女キャラクターたちのことが、である。それは美術と対照にあるものであり、対照にあるものとして適切に世間一般でもあつ…

「まあ田舎の平凡な母親」――坂口安吾「おみな」、村上護「安吾風来記」

私が小説家について勉強をするように読むはじまりとなったのが坂口安吾で、それは柄谷行人がハイデガーとならべて称揚をした、という奇妙な文脈にのってのことではなく、彼が「吹雪物語」という小説を書いていたこと、そして今ひとつは彼が毒親そだち、のよ…

「言葉のやりとりがまるでない」――長沢光雄「風俗の人たち」

すっかりと映画ぐせがついてしまって、武蔵野館のついでに新宿TOHOシネマズと蜜月になるうちに(おもに日比谷にかよっているのだけれども、TOHOシネマズは新宿のも超大型劇場で、夜おそくまでやっているから、いいものである。隣だかのIMAXでぐ…

「ふふふと笑う」――山田詠美「放課後の音符」

SNS患者やるのって気持ちいいんだよね。私もイヤイヤその流れに乗ってきた、相応に乗ってこられていたから、わかる。あれはノッている感覚、生活を一定のリズムに差配をされる、アディクションの気持ち良さなわけだ。本当はアル中病棟にいかなきゃなんな…

「虚心に純真に」――藤島武二「画室の言葉」

まじめに遊ぶ事、そのむずかしさたるや、遊びをしながらに常々とかんがえて来ても、精確な手応えとともにそれを知ったつもりになることが、どうしても簡単にはできない。まじめに文章を書くといっても、そのまじめさというのは、堅気の仕事のように見て取り…

「火を、硬い物質を、力を愛する必要」――バシュラール「夢みる権利」

われながら、情けないほどの下積み経験をもって文章を書き続けてひとつの岬にたっておもうのは、自分のもっているスタイルで自分のできることが、いかに貧困であるのか、ということだ。それは、自分ができることに達した時に、ひとは自分のできる限界を知り…

「土地っ子としてのわたしと、ストレンジャーとしてのわたし」――池田弥三郎「銀座十二章」

食べもの屋を食べあるいていると、悲しい、悲しい、ほんとうにやるせなく悲しくて痛い、身体の痛みとなった瞬間には即座に記憶の痛みとなる、痛みに出くわすことになる。と、そう、書き出してしまえば私の場合に銀座のラーメン店であったり(あのイタリアン…

「ことなる心地するにつけても、ただ物のみおぼゆ」――スタンダール「エゴチスムの回想」、ブルーハーブ、建立門院右京大夫、ジャンケレヴィッチ「還らぬ時と郷愁」

ペンを手にして、自分を反省したら、なにか確かなもの、わたしにとってのちまで真実であるようなものに達するかどうか。一八三五年ごろ、まだ生きているとして、読みかえしたら、これから書こうとしていることを、自分ながらどう思うだろう。これまでのわた…

「言語をうっちゃってしまい、物をそっくりそのまま使って話しを交そうとするあの連中」――ゲイブリエル・ジョンポヴィッチ「書くことと肉体」、ヤコブソン「音と意味についての六章」、V.K.ジュラヴリョフ「言語学は何の役に立つか」

ミハイル・バフチンその人というよりも、バフチンの提唱をする「ポリフォニー」の概念にひたすらに興味があって、それはバフチンという提唱者が邪魔におもわれるまでに、拘泥をしてしまう、そうした私の興味のあり方をしているのであった。 音楽を骨董品のよ…

「なんか知っちゃった」――リリー・フランキー/ナンシー関「小さなスナック」

これはのっけから余談だが、萩原健太という、日本でビーチボーイズでありブライアン・ウィルソンを聴いている人士であるのならば、まずゆかりがあるであろう音楽評論家の名前が、ナンシー関の口から出てきて、驚いたのであった。 ナンシー (略)高校生の頃…

「抒情的な自由詩系統の作風は流行遅れになりかかって」――伊藤整「若い詩人の肖像」、田中冬二「子の山行の思い出」

親しく読んできたというのにはほど遠いのだったが、田中冬二は地元の詩人であったから、地元の文学館の展示などにふれて、その作品に接する機会をもってきた。そのようにかすかなかたちでふれ、親しく読んできたわけではなかったぶん、印象はいまでも記憶の…

「お前はお前でそこで枯れるのだ」――ヘッセ「庭仕事の愉しみ」、蓮池歓一「伊藤整―文学と生活の断面―」

アル中の父親とスキゾの母親の実家からはなれ、一軒家を借りて、凪のような平静の日々を送っている。実際には凪が凪いでいるほどに、大時化である。書かなければならない文章に追われては、自分の文章をつかまえて、のくりかえしで一日、一日をみっちりと埋…

「飲食店というものは、なにを売ってもよいのだ」――茂出木心護「洋食や」

私のラーメンの食べ歩きもなにか得体のしれぬカルマとなっていっていて、都内だけで二百店から三百店へとゆるやかにではあるが、食べついでいる。もともとは文章のために、銀座でミシュランをとったりしていたラーメン店をひたすら食べてみよう、ということ…

作業日誌(最終更新日九月十日)

現在有料記事部分がないのに有料販売の設定になっております。記事が追加されていくにつれて順次、値上げをしていく予定です。 八月十四日 SNS(X)をやめる。誕生日。恋人と花火をみるなどする。朝方に二枚書く。恋人の友人訪ねて来、その後に駅前へ。…

「ほんの少しましな思想」――末永直海「百円シンガー極楽天使」、吉本ばなな「キッチン」

あのねちっこい歌声が館内にこだましている。いちど耳に飛び込むと、うっかり踏んづけられた靴の裏のガムみたいにしつこくへばりつく、あの安い旋律。 今日の巡業先は、埼玉県東大宮のヘルスセンター。熱唱の二人組は、私と同じプロダクションのシンガー、「…

「人生の方は我々がどこへ行っても、いやでもついてくる」――吉田健一「続 酒肴酒」

宇野さんの事を、人間として最も善く出来た田舎者だと僕が言ったら、あれで田舎者に徹したらモット素晴らしい人だったろう、と言った人がある。 青山二郎「鎌倉文士骨董奇譚」 鎌倉文士骨董奇譚 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ) 作者:青山 二郎 講談社 …

「眼と視力は人格の中心であるという考えかた」――日高敏隆「春の数えかた」、ゴンザレス=クルッシ「五つの感覚」

短気で、そそっかしく風景を見渡していてしまう。 中尊寺に行った時もそう。 なんにもおぼえちゃいない。 或いは、一部の本を読んでいても、数行を読んでは斜め読みをしていくだけで、この本はどんな性質の本であり、中核の部分にはどんなことが書かれている…

「書くことは苦しいが、それ以上に創り出すことはもっと苦しい」――出久根達郎「古書法楽」、ジャネット・ウィンターソン「灯台守の話」、野口冨士男「誄歌」

日比谷のドイツ居酒屋でランチを食べたばかりだというのに、「丸香」のうどんを食べさせられて(もちろん私に食べさせられたという意味だ。あの讃岐うどんに私はほんとうに心酔をしているのだ)腹がコチコチの連れとともに、神保町のブックフリマに寄る。国…

「真に偉大な作家は、ものを書こうと欲しない」――ウィリアム・ジンサー「誰よりも、うまく書く」、ヘンリー・ミラー「薔薇色の十字架 セクサス」

どのように怒るのであっても、世界を呪うのであっても、――またはただある事項についてのなにかの説明を成すというのであっても、文章を書くという行為は結句、垂直な祈りに似た行為とならざるをえない。そうあるほかないのだ。いかなごろつきによる、非生産…

「ベストはまだだ」――ブルーハーブ「THE BEST IS YET TO COME」

どうとでもできない宿業を抱え込んで東京を歩くこと。一体生きている間にどれだけの文字を書き残すことができるのかという宗教的なまでの占いに身をやつし、戦っている、戦ってきたつもりになってそこに生きるほどに、自分はなぜ若かりし日に比して多くを失…

「実際は、決して、そのような希望が満たされることはないのだ」――伊藤整「新しい一年」

新春の雰囲気といおうか、たたずまいといおうか、そこにつき纏うある種のイメージが、好きである。新春なのであるから、それは清澄なイメージに決まっているのであったが、その清澄なイメージとはしょせんは時計の針によって測られる、人間の愚かな錯覚のご…